三十年前③
市と大助は、男に連れられて見知らぬ屋敷の前に立っていた。
市は落ち着かず、思わず辺りを見回す。
(立派なお屋敷……。こんなところに私たちが入れるわけないわ……)
男は二人から少し離れたところで、屋敷の門番と何か話していた。
(一体、どうして私たちをここに……)
門番と話し終えた男は、市の視線に気づくとにっこりと市に微笑んだ。
市はなんとなく気まずくなり、静かに視線を逸らした。
そのとき、勢いよく門が開いた。
「藤乃! ああ……、本当に……本当に藤乃なのね!」
屋敷の門が開くと同時に、市は見知らぬ女性に勢いよく抱きしめられた。
突然のことに市は目を見開き、思わず後ずさる。
(な、何……!? この人は……!?)
市は横にいた大助に視線を送ったが、大助も突然のことに驚いたようでただ目を丸くしていた。
女性はわずかに腕の力を弱めると顔を上げ、市の顔をまじまじと見た。
「ああ、藤乃……。こんなに痩せてしまって……。一体今までどれだけの苦労を……」
女性の目にはこぼれ落ちそうなほどの涙が浮かんでいた。
市はわけがわからない状況に言葉が出なかった。
(藤乃って私のことなの……?)
「まぁまぁ、ここではなんですから」
そのとき、男が二人の後ろから女性に向かって穏やかに声をかけた。
男の言葉に、女性は弾かれたように顔を上げる。
「そうね……! ここは寒いわね! 中に入って」
女性はそう言うと、初めて視線を大助に向けた。
「あなたも中に入って。今まで藤乃を守ってくれていたのでしょう? お礼がしたいわ! とにかく中に入って」
女性に声をかけられた大助は、市の予想通り、あからさまに眉をひそめた。
「……は? あんた何言って……」
「それではお言葉に甘えて」
大助の言葉を遮るように、男はそう言うとそっと大助の背中を押した。
睨みつける大助に、男は静かに笑顔で応える。
「そうだわ! お腹が減っているでしょう? すぐに温かい食事を用意させるわ! 中でお父様も待っているのよ。さぁ、入って頂戴」
女性はそう言うと立ち上がり、門から屋敷の入り口に向かって歩き始めた。
市と大助は思わず顔を見合わせた。
「おい、どういうことだよ……」
大助はわずかに振り返ると、小さな声で男に聞いた。
「中で説明するよ。まぁ、まずはお言葉に甘えて中に入ろうじゃないか」
男はそう言うと二人の背中を押した。
「……ちゃんと説明してもらうからな」
大助はそう言って男を睨むと、そっと市の手を取った。
「大助……」
「大丈夫だ。何があっても俺が守るから」
大助はそう言うと、市に向かって微笑んだ。
「うん……」
市は小さく頷くと大助の手をそっと握り返した。
後ろにいる男とともに、二人はゆっくりと屋敷へと足を進める。
屋敷に上がると、女性はにこやかに三人を迎え、部屋に案内すると言って廊下を進んだ。
屋敷は、今まで市が見たどんな場所よりも綺麗だった。
広い廊下を歩いていると、奉公人と思われる人たちがすれ違いざまに次々と頭を下げた。
(ここはきっと……武家のお屋敷よね……。私なんかが来ていい場所じゃないわ……)
市は思わず目を伏せた。
しばらく歩いていくと、女性はひとつの部屋の前で足を止めた。
「さぁ、ここよ」
女性はそう言うと襖を開ける。
襖の向こうには、見知らぬ男性が静かに座っていた。
「あなたのお父様よ」
女性は市に向かってそう言うと、穏やかに微笑んだ。
市は目を見開く。
「え……?」
市はおずおずと見知らぬ男性に目を向けた。
(何? どういうこと? お父様……? 何を言っているの……?)
「事情は私から説明しよう」
見知らぬ男性は、市の視線を受けてどこか悲しげに微笑んだ。
「おまえは食事の用意をするのだろう? それなら奉公人たちに早く話しを通した方がいい」
男性は、女性にそう言うと小さく笑いかけた。
「ああ、そうですね! では、藤乃とお客様のことをお願いします。私は食事の準備をいたしますね」
女性はそう言うと三人に微笑みかけ、どこか嬉しそうな足取りで奥へと去っていった。
女性の姿が見えなくなると、市と大助は顔を見合わせた。
あそこにいるのは市の父親なのか、と大助の目が問いかけている気がして、市は静かに首を横に振った。
市の父親は罪人だった。
その父親はすでに亡くなっているため、目の前の人物が父親であるはずがなかった。
「驚かせてしまってすまないね……」
座敷に座っていた男性は静かに声をかけた。
「事情を説明しよう。さぁ、こちらに来てくれ」
市と大助はもう一度顔を見合わせた後、ゆっくりと部屋に入った。
「あ、あの……! すみません!」
男性に近づくと、市は意を決して口を開いた。
「たぶん何か勘違いされています! 私は藤乃という名ではありませんし……。私の父親はもう亡くなっています……。それに……」
「わかっている」
市の言葉を遮るように、男性は静かに言った。
「わかっているんだ……」
男性はそう言うと、片手で顔を覆った。
「君が藤乃ではないということも、藤乃が……きっともう亡くなっているということも……。わかっているんだよ……」
男性は絞り出すようにそう言うと、苦しげに目を閉じた。
(一体……どういうことなの……?)
何かに苦しんでいる男性の姿に、市はそれ以上何も言うことができなかった。




