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鬼籍と名簿

「花魁、少し教えていただきたいことがあるのですが……」

 緑は、咲耶の前に茶を出しながらおずおずと口を開いた。

鬼籍(きせき)……とは何ですか?」

「きせき?」

 咲耶は首を傾げる。

「はい……。先日姐さんが言っていたんです。『親は鬼籍に()った』と……」

「ああ、鬼籍のことか」

 咲耶はようやく緑の聞きたいことがわかり、思わず微笑んだ。

「鬼籍に入ったっていうのは、亡くなったってことだ」

 咲耶の言葉に緑は目を丸くする。

「そうなのですか? 鬼籍……どうしてそんな変わった言い方をするんでしょうか……?」


「ああ、それは……」

 咲耶はそこまで言うと、目の前で居心地悪そうに座っている叡正に目を向けた。

「ちょうど、地獄にくわしい者がいるから、聞いてみるといい」

 咲耶はそう言うと、叡正に向かってにっこりと微笑みかけた。

「地獄にくわしいって、またそんな……」

 叡正は嫌そうな顔でブツブツと呟くと、やがて諦めたように緑を見た。

「……鬼籍っていうのは、閻魔帳(えんまちょう)のことを指してるって言われてるんだが……」

「閻魔帳……? え、地獄の話ですか!?」

 緑は叡正の話しを聞きながら、運んできた茶を叡正の前に置く。


 緑を見ながら、咲耶は思わず苦笑した。

(今さらだが……茶は客から出した方がいい気がするが……。まぁ、いいか……)

 相手が叡正なので、咲耶はとりあえず何も言わないことにした。


「地獄っていうか……、閻魔大王が持ってる死者の名前が書かれた名簿のことを閻魔帳っていうんだ。その名簿に名前が載るから亡くなることを『鬼籍に入る』って言うらしい……」

「へ~、そうなんですね」

 緑は目を丸くすると、キラキラした眼差しを叡正に向ける。

「さすが叡正様! 地獄好きなだけありますね!」


「地獄好きってことはないが……」

 叡正は引きつった顔で笑った。

「まぁ……寺にも同じようなものがあるしな……」


「え!? 寺に閻魔帳があるんですか!?」

 緑はギョッとしたように叡正を見た。

「あ、いや……! 閻魔帳ってわけじゃないんだが……」

 叡正は慌てて首を横に振る。

「寺には死者の名前を書いていく過去帳(かこちょう)ってものがあって、檀家の誰かが亡くなるとそこに名前を書き加えていくんだ。それが鬼籍って呼ばれることもあるから……」

「過去帳……そんなものがあるんですね……。では、亡くなった人の名前は全部そこにあるんですか?」

 緑は首を傾げる。

「まぁ、そうだな……。檀家の人たちだけにはなるが」


「檀家さん……。そういえば、そもそもどうしてお寺の人が亡くなった人の名前を書き留めているんですか?」

「あ、それは……」

「寺には宗門(しゅうもん)人別(にんべつ)改帳(あらためちょう)があるからな」

 二人の話を黙って聞いていた咲耶は、叡正の言葉を遮るように口を開く。


「しゅ、しゅうもん……? えっと……花魁、今なんと……?」

 緑は申し訳なさそうに咲耶を見た。

宗門(しゅうもん)人別(にんべつ)改帳(あらためちょう)だ。どこに誰が住んでいているのか書かれた名簿だな。亡くなるとその名簿から過去帳に名前が移るんだ」

「なるほど……今、生きてる人たちの名前が書かれた名簿もお寺が管理してるってことですね……。あ、では、全部の寺の名簿を集めれば、今この国で生きている人全員の名前がわかるってことですね! みんなどこかの寺の檀家なのでしょう?」

 緑の言葉に、咲耶と叡正は思わず顔を見合わせた。

 叡正は少し困ったような顔をした後、静かに目を伏せる。


(全員……ではないよな……。まぁ、ここは私が話すべきか……)

 咲耶は心を決めると、緑を見た。

「全員の名前が書かれているわけではないんだ……。たとえば、私の名前や私のことが書かれた名簿はどの寺にもないはずだ」

「え、どうしてですか……?」

 緑の顔が一瞬にして曇る。

 咲耶は緑を安心させるように、できるだけ柔らかい表情で語りかけた。

「私が赤子の頃に吉原に捨てられていた話は、緑も知っているだろう? そもそも生まれたことが寺に伝えられていないかもしれないし、伝えていたとしても住む場所が変わった段階で、その土地を管理している寺に届け出ないといけないんだ。『ここに捨てます』と届け出ているはずがないからな。私の名前はどこの寺にもないはずだ」

「そう……なのですね……。な、名前がなくても不便なことはないのですよね……?」

 緑が不安げな表情で咲耶を見つめる。


「私は吉原にいるから特に不便はないが……。本来、宗門(しゅうもん)人別(にんべつ)改帳(あらためちょう)に名前がない者は非人(ひにん)と呼ばれるんだ……。身元が確かではない者として扱われるから、自分で長屋を借りることもできなければ、職に就くこともできない……。相当……生きづらいはずだよ……」

 咲耶は静かに目を伏せた。

 咲耶がこうして、ある程度自由に生きられるのは吉原という特殊な環境の中でこそだった。

「……ひにん……?」

「ああ、人に(あら)ず……ってことだな」

「そ、そんな……!」

 緑は目を見開く。

「花魁は、天から舞い降りた天女なんですよ! そんな、非人なんて……! あんまりです!」

 緑の言葉に、咲耶はフッと笑った。

「それが事実なら、本当に人ではないから、非人で間違ってはいないな。まぁ、私は不便なことも特にないから、心配するな」

 咲耶はそう言って緑に微笑むと、緑と同じように不安げな顔でこちらを見ていた叡正に視線を向けた。


(ここは空気を変えた方がいいか……)

「そんなことより、そろそろ本題に入ってくれないか? おまえは一体何の用なんだ? 私の記憶が確かなら、二日前に来たばかりだと思うが?」

 咲耶はニヤリと笑うと、上目遣いに叡正を見る。

「もう私に会いたくなったのか?」


「……え?」

 一瞬キョトンとした顔をした叡正の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「ち……! 違う! そ、そういうわけじゃ……!」

 叡正は慌てた様子で首を横に振った。


(ん? ……なんだか想像以上の過剰な反応だが……)

 しだいに真っ赤になっていく叡正を見ながら、咲耶はわずかに首を傾げる。

(まぁ、空気は変えられたか……)


「こ、これを見せに来たんだ……! このあいだ気にしてたから……」

 叡正はそう言うと懐から手紙を取り出し、咲耶に差し出した。

「これは?」

 咲耶は手紙を受け取りながら、叡正を見た。

「佑助からの手紙だ。名簿は見つからなかったそうだが、覚えている限りの名前を書いてくれたらしい……」

 咲耶は目を見張ると、すぐに手紙を開いた。

 手紙に書かれた名前には、咲耶でもわかる者が数人いた。


(この者たちは、おそらく叡正の屋敷で起こった出来事に関係している人間……)

 咲耶は手紙から視線を上げて叡正を見る。


「おまえは……この中で知っている者はいたのか……?」

「ん? ああ……全員知ってはいたが……」

 叡正の言葉に、咲耶は目を見開く。

「全員……?」

「ああ、みんなうちの寺の檀家だから……」


(檀家……?)

 咲耶の胸がざらりと嫌な音を立てる。

(全員……叡正の寺の……?)


「これは一体何の名簿なんだろうな……」

 嫌な考えが頭をよぎり、咲耶は叡正の問いに答えることができなかった。

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