鬼の冷笑
(帰ると思ったんだが……)
叡正は前を歩く信の背中を見ながらため息をついた。
野田家を後にした叡正と信は、その足で佑助が以前暮らしていた屋敷に向かっていた。
野田家から佑助が暮らしていた笠本家の屋敷は近く、二人はすぐに笠本家の門の前に立つことになった。
「なぁ……、ここはさすがに佑助に許可を取った方が……」
叡正がそう言い終える前に、信は一歩前に出ると門の戸を叩いた。
すぐに屋敷の中から返事があった。
叡正はため息をつく。
(さっき言うことを聞いてくれたのは、やっぱり奇跡だったか……)
門がゆっくりと開き、中から奉公人の男が出てきた。
「はい……、どちら様でしょうか?」
奉公人は、信と叡正を交互に見て首を傾げる。
「今日は法要の予定もなかったと思うのですが……」
奉公人は叡正の全身を見ながら、より一層首を傾けた。
「あ、そういった用では……!」
叡正は慌てて奉公人に言った。
「その……、私は……佑助……様と知り合いで……。今日はその……」
叡正が言い淀んでいると、奉公人はハッとしたように口元に手を当てた。
「佑助様……の……?」
奉公人の顔はみるみる青ざめていった。
「え……、あの……、大丈夫ですか?」
奉公人の様子に、叡正は慌てて奉公人に駆け寄った。
「あ、はい……。大丈夫です……。確認してまいりますので、少々お待ちください……」
奉公人は目を泳がせながら叡正にそう告げると、慌てた様子で屋敷の中に戻っていった。
(確認ってなんだ……? どういうことだ……?)
叡正は戸惑いながら、信を見た。
信はただ奉公人が去っていった方をじっと見つめていた。
(佑助の名前を言ってはいけなかったのか……?)
叡正が考え込んでいると、先ほどの奉公人が小走りでこちらに戻ってきた。
「お待たせいたしました。旦那様から許可がおりました……。どうぞお入りください」
奉公人は門をしっかりと開けると、叡正と信に入るように促した。
「ありがとうございます……」
叡正は一礼すると、信と共に門をくぐった。
「どうぞ、こちらです」
奉公人はそう言うと、ゆっくりと歩き出した。
叡正は屋敷の部屋に案内されると思っていたが、叡正の予想に反して奉公人は庭を真っすぐに進み始めた。
(これは……どこに案内されているんだ……?)
奉公人の背を追って歩きながら、叡正は少し後ろを歩く信を見た。
信は奉公人の背を見つめたまま、淡々と歩いていた。
しばらく歩くと、奉公人は立ち止まり叡正を見る。
「こちらです」
奉公人が手で示した場所には何もなかった。
庭の片隅、不自然なほどぽっかりと何もない空間が広がっているだけだった。
叡正は戸惑いながら奉公人を見た。
「あの……ここは……?」
「あ、今は何もありませんが、こちらがその……亡くなった場所です……。佑助様に頼まれて経を上げに来てくださったのでしょう……?」
奉公人の言葉に、叡正は目を見開いた。
「野田家の娘……」
突然背後から声が響いた。
叡正が振り返ると、そこには四十過ぎの風格漂う男が立っていた。
「野田茜が死んだ場所だ」
男はどこか悲しげな眼差しで、その場所を見ていた。
「旦那様……!」
奉公人は慌てて、男の横に寄り添った。
「外に出て大丈夫なのですか?」
「ああ、今日は調子がいいからな」
男はそう言うと微笑んだ。
(旦那様……。佑助の父親か……)
がっしりとした体格に威厳まで感じるその姿は、武家の当主にふさわしい佇まいだったが、その顔色はひどく悪かった。
「あ、ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
叡正は慌てて佑助の父親に頭を下げた。
「私は佑助……様の知人で……」
「ああ、佑助に頼まれて、経を上げにきてくれたんだろう? わざわざすまないな……」
佑助の父親はそう言うと、叡正に微笑みかけた。
目尻が下がると、その顔は意外なほど佑助によく似ていた。
佑助の父親は叡正の横を通りすぎると、何もない空間に向かって歩き始めた。
「ここには、以前小屋があったんだ……。佑助は昔からここが好きでな、何かあるごとにこの小屋に隠れていた……」
佑助の父親は立ち止まり、今はもうない小屋を見つめているようだった。
「ここで何があった?」
唐突に信が口を開いた。
「お、おい……!」
叡正が諌めようとしたが、それを遮るように佑助の父親が苦笑した。
「構わないよ。……火事があった。そこで野田家の娘が死んだんだ。……放火だった」
「放火……?」
叡正は思わず聞き返した。
佑助の父親は叡正をチラリと見ると、目を伏せた。
「ああ、火を放った者がいた。そいつは……この場で斬り殺されたよ……。駆けつけた野田家の当主にな……」
「それは……」
叡正は何を言えばいいのかわからなかった。
「まさに地獄絵図だったよ……」
佑助の父親は遠くを見つめながら呟いた。
(地獄絵図……)
叡正の脳裏に、佑助の描いた絵が浮かんでいた。
「まぁ、あいつは……自業自得だが……」
佑助の父親は小さく呟く。
「あいつ……?」
叡正の言葉に、佑助の父親は振り返らずに口を開いた。
「野田家の当主。あいつがうちの小屋に火を点けるよう命じた張本人だからな……」
叡正は目を見開いた。
「どうして、そんな……!」
佑助の父親は苦笑した。
「さぁな。もう……考えたくもない……」
叡正は思わず視線を落とした。
(野田家の当主……。慎重で保守的なことで有名なあの人が……?)
叡正が知っている人物からは、とても想像ができなかった。
「おまえの息子は、おまえのことを鬼だと言っていた」
また唐突に信が口を開く。
信の言葉に、その場にいた全員が凍りついたように動きを止めた。
「おまえ……! それは……!」
叡正は口にすると同時に、おずおずと佑助の父親を見た。
その顔には驚きとともに、深い悲しみの色が浮かんでいた。
佑助の父親は静かに目を伏せる。
「そうか……。鬼に……見えただろうな……」
「失礼なことを言ってすみません! これは……その……絵の話で……」
叡正は慌てて、頭を下げた。
「いや、いい……。事実だからな……」
佑助の父親は再び遠くを見つめ、絞り出すように言った。
「私は……あのとき……笑ったんだ……」
「笑った……?」
叡正は思わず聞き返した。
「小屋が燃えて焼け落ちそうな中……小屋に火を点けるよう命じたのが……あいつだとわかって……狙われたのが佑助で、実際に小屋にいたのがあいつの娘だとわかったとき……。ああ、自業自得だと……。私は……冷ややかに笑ったんだ……」
佑助の父親は震える両手で顔を覆った。
「あの子は……茜は……何も悪くないとわかっていた……。それなのに私は……。……茜を助けてくれと泣いて縋っていた佑助は、私のその顔を見たんだ……。そのときの私は……確かに鬼に見えただろうな……」
叡正は、佑助の父親にかける言葉が見つからなかった。
佑助の父親は、ゆっくりと顔を覆っていた両手を下ろした。
「あのときの……佑助の目……。見開かれた目に浮かんだ憎悪と嫌悪……今でも忘れられない……」
佑助の父親は息を吐くと、叡正を振り返った。
「あの日……野田家も、うちも……すべてが壊れたんだ……」
佑助の父親はそう言うと、静かに目を閉じた。




