地獄絵
静かな長屋の中で、男の動きに合わせて畳に着物がこすれる音だけが響いていた。
『私、あなたの描く絵、好きよ』
ふいに、男の頭の中で声が響いた。
男は紙に筆を走らせながら苦笑する。
(わかってる……。君が好きだったのは……こんな絵じゃないよね……)
筆先から血を思わせるような赤が紙に広がっていく。
『あなたの目から見た世界は、きっとこんなふうに輝いてるのね』
頭の中の声は明るく、男の胸が苦しくなるほど楽しげだった。
男が走らせる赤い線は、燃え盛る炎を描き出した。
炎の中では、体を焼かれた人々が悶え苦しみ、のたうち回っている。
その傍らでは、鬼が人の皮を剥ぎ、巨大な槍で人々を突き刺して火で炙っていた。
男は静かに目を伏せる。
(もう……昔みたいな絵は描けそうもないよ……)
そのとき、家の外から声が聞こえた。
男はゆっくりと顔を上げる。
急速に現実に引き戻されていくのを、男は感じた。
寂れた長屋の戸から、かすかに日が差し込んでいる。
戸に張られた障子にぼんやりと二つの影がうつった。
「ここなんでしょ……! あの気味の悪い絵を描いてる絵師の家……」
それは女の声だった。
「そうだけど……、ちょっと落ち着きましょうよ……」
もうひとりの女がなだめるような声で言った。
「あんな絵を描いてる人間が近くに住んでると思うと……もう耐えられないのよ……! なんとか出て行くように言って……!」
「そうは言ってもね……お金は……ちゃんと払ってくれる人だから……」
「お金って……あの気味の悪い絵を売ったお金でしょ……!? あの絵を描くために……人を……殺したこともあるって、そう聞いたわよ……? 怖いのよ……! うちは子どももまだ小さいし……。何かあったら……」
「ただの噂よ……。とにかく今日はやめておきましょう……。ね? 一旦落ち着いて。ほら、静かだし……きっと留守なのよ……。日を改めましょう……?」
「…………わかった。でも、必ず追い出して……。そうでないと……」
二人の女の声がしだいに遠ざかっていくのがわかった。
男は静かに息を吐く。
(ここも……出ていった方がよさそうだな……)
男は再び絵に視線を落とした。
「人を殺した……か……」
描いた地獄の業火と、記憶の中の炎に包まれた小屋の光景が重なっていく。
男は目を閉じた。
「その通りだな……」
男は小さく呟くと、震える手で顔を覆った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夕暮れ時、茶屋には二人の男がいた。
二人は離れた場所に座っていたが、茶屋の主人がいなくなると男は立ち上がり、額に傷のある男の前に立った。
傷のある男は、不機嫌そうに男を見上げる。
「今日は何の用だ?」
男はにっこりと微笑む。
「これさ」
男はそう言うと懐から一枚の紙を取り出し、傷のある男に差し出した。
「なんだ? 手紙か?」
傷のある男は、紙を受け取るとゆっくりと広げた。
「なんだよ、これ」
傷のある男は眉をひそめる。
「見ての通りだよ。最近あの方が気に入ってる絵だ」
男はそう言うと、傷のある男に背を向け、座っていた場所に戻ると静かに腰を下ろした。
「悪趣味だな……って言わせたくて持ってきたのか?」
傷のある男は、絵に視線を落とす。
それは地獄絵だった。
至るところから火の手が上がり、数えきれないほどの人々が炎に飲まれ悶え苦しんでいた。
人々のそばには明らかに鬼とわかる化け物がいて、怒り狂った顔で人の首を切り落とす鬼や、口元に笑み浮かべながら人を串刺しにしている鬼がいる。
「絵を見せるためだけに、わざわざ呼ぶと思う? あの方からのご依頼だよ」
男はフッと笑った。
「……この絵師の始末か?」
傷のある男は、顔を上げて男を見た。
「いや」
男はにっこりと微笑む。
「始末するのは、鬼の方だよ」
傷のある男はわずかに目を見張った後、何かを察したように静かにため息をついた。
「面倒くさそうな依頼だな……。回りくどい言い方しなくていいから、さっさと話せよ」
「わかったよ。ちなみに、普通に話しても長くなるから、口を挟まずに聞いてね」
男はそう言うと、ゆっくりと話し始めた。
傷のある男はただ黙って聞いていたが、男の予想通り、話し終わる頃には日はすっかり沈んでしまっていた。




