女の依頼
「信さん、竜さんの娘さんが来たよ!」
弥吉は長屋の中で漆を塗っていた信に声を掛けた。
信は顔を上げると、眉をひそめる。
「竜さんの娘……?」
「いや、だから! この前言ったでしょ! 竜さんの娘さんが、信さんに仕事を頼みたいって言ってたって! 竜さんは今まさに信さんがやってる仕事を頼んできた人! その娘さんが来てるの!」
弥吉の言葉に、信さんは手に持っていた椀を見つめる。
「ああ……、きゅうりの……」
弥吉は呆れた顔で信を見る。
「だから……このやりとり、このあいだやったからね」
「そうか……」
「そうだよ。それで中に案内していい? 今長屋の外で待ってもらってるんだ」
「ああ」
信はそれだけ言うと、また椀に視線を戻し漆を塗り始めた。
「じゃあ、呼ぶけど……ちゃんと話し聞いてあげてよ……」
弥吉は少し心配そうに言うと、長屋の戸を開けて外に出た。
「失礼します。お忙しいときに突然申し訳ございません」
弥吉が促すと、女がゆっくりと長屋に入ってきた。
信はちらりと女を見る。
女は品の良い笑顔を浮かべていた。
穏やかなその表情は、奉公人というよりもどこか商売人を思わせるものだった。
女はゆっくりと信に近づくと再び微笑む。
「はじめまして。妙と申します。いつも父がお世話になっております」
信は何も答えず、ただ静かに女の顔を見つめていた。
「私、父と似ていないでしょう? 母似なのです。おしゃべり好きなところも母似かもしれませんね」
妙はフフッと笑った。
竜は寡黙でどちらかといえば職人気質な男だった。
目の前にいる女は、顔も声もしぐさも、何ひとつ竜には似ていなかった。
信は眉をひそめる。
「早速なのですが、信様にお願いしたいことがございまして……」
信の様子を気にすることなく、女は笑顔で口を開く。
「父から信様は絵付けができると伺いました。実は、皿の絵の修復ができる方を屋敷の旦那様が探しているのです。修復は絵付けとは少し違うかもしれませんが、ぜひ一度修復できるか見ていただきたいと思い、こうして伺いました」
女はにこやかな笑みを浮かべながら、信を見つめた。
信は女から視線をそらさず、ゆっくりと手に持っていた椀と漆の刷毛を置く。
「……おまえ、誰だ?」
信は真っすぐに女を見つめると、静かに聞いた。
女は動じることなくクスッと笑う。
「先ほど申し上げた通り、竜の娘の妙です。そんなことより、修復できるか一度皿を見ていただきたいのです。こちらに持ってこられればよかったのですが、貴重な皿なので屋敷の外に出すことはできなくて……」
女は申し訳なさそうな顔をして信を見た後、妖しげに笑った。
「ですから、一度屋敷にお越しいただきたいのです」
信は睨むように女を見たが、女は笑顔で応えた。
「いかがですか? お願いできますか?」
しばらく二人はそのまま見つめあっていたが、やがて信が口を開いた。
「わかった」
信の言葉に、女はにっこりと微笑む。
「ふふ、ありがとうございます。では、今からは急なので、三日後はいかがでしょうか? また私がこちらに伺い、屋敷までご案内いたします」
「……わかった」
信は女から視線をそらさず言った。
「あ、信さん……」
部屋の隅で、どこか緊迫した二人のやりとりを聞いていた弥吉は、ようやく声を出すことができた。
「あの、それ……俺も一緒に行っていい……?」
弥吉の言葉に、信がわずかに目を見張る。
「ダ……!」
「ええ、ぜひぜひ!」
信の言葉を遮るように、女が嬉しそうに言った。
女の言葉に、信は眉をひそめる。
「弥吉さんが一緒だと私も話しやすいので嬉しいです。ただ……信様がダメだとおっしゃるなら、それは……。私はどちらでも構いませんので……。ここにひとりで残っていただいても、一緒に屋敷に来ていただいても、どちらでも……」
女が妖しく目を細め、口元を歪める。
信は女を睨みつけた。
「し、信さん……?」
信の様子に戸惑い、弥吉がおずおずと声を掛ける。
「あの……別に無理には……」
「いや、いい。弥吉と行く」
信は淡々と女に言った。
信の言葉に、女は嬉しそうに笑う。
「では、三日後にまた参ります」
女はそう言うと信に頭を下げ、戸に向かって歩き出した。
信は女の背中を見つめ続ける。
女は戸を開けると、信を振り返った。
「いろいろと、まだわからないことはあるかと思いますが、来ていただければ……すべてわかるはずですよ」
女は妖しく微笑むと、もう一度頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
女が外に出ると長屋の戸はゆっくりと閉まった。
「し、信さん……」
弥吉が不安げに信を見た。
「あの妙さんって人……何かあるの……?」
信は弥吉を見つめた後、静かに目を伏せた。
「いや……別に。何もない……」
信はそう言うと、再び椀と刷毛を持って漆を塗り始めた。
「そう……ならいいけど……」
弥吉が不安げに小さく呟く声が、信の耳に届く。
信は静かに目を閉じた。




