消えないもの
「手を……離してください」
茫然と薄茶色の目を見ていた隆宗は、ようやく我に返り刀を持つ手に力を込めた。
再び体重をかけて刀を下ろそうとしたが、刀はピクリとも動かなかった。
(なんで……! あと少しなのに……!)
刃先は父親の胸にわずかに届いていなかった。
隆宗は思わず信を睨む。
「どうして邪魔するんですか!? あなたには関係ないことでしょう……!」
信は刃を掴んだまま、じっと隆宗を見ていた。
「……乳母の手紙に、おまえを頼むと書いてあった。それに……」
信は静かに口を開いた。
「弥吉が……望まない」
「手紙……? 一体何のことを……」
隆宗は目を見張った後、静かに目をそらした。
「それに、弥吉のことは……」
隆宗がそう言いかけたとき、開けられたままの襖の向こうで人が動く気配がした。
(まさか……)
隆宗は恐る恐る視線を廊下に向ける。
「おまえ……何してるんだよ……」
今、隆宗が最も聞きたくなかった声が響いた。
隆宗は咄嗟に刀を引くと、後ろに後ずさる。
「来るな……」
隆宗ははっきりとそう口にしたつもりだったが、その声はかすれ自分でも震えているように感じられた。
「どういうことだよ……」
隆宗に近づいてきた弥吉は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「なんでこんなことになってんだよ! おまえ、どうしてこんなこと……」
(最悪だ……)
隆宗は弥吉の顔を見ながら、これ以上弥吉が近づかないように刀を構えた。
(どうすればいい……。今、父上に斬りかかっても、きっとあの男に止められる……。どうすれば……)
手にかいた嫌な汗で刀が滑り、隆宗は刀を持つ手に力を込めた。
「なぁ! どうして俺に何も言ってくれなかったんだよ……! 俺たち兄弟みたいなものだっただろ!?」
弥吉の声は震えていた。
思わず隆宗の顔が歪む。
(そんなの……言えるわけないだろ……? おまえが殺されると聞いて、清さんがあの女を殺したなんて……)
隆宗は唇を噛みしめた。
(そんなこと言ったら、おまえは自分を責めるだろ……? 弥吉が責任を感じる必要なんてないのに……。そもそも、すべてはあの女と父上のせいなんだから……! これ以上、屋敷の問題には絶対に巻き込めない……)
「おまえには……関係ないことだ」
隆宗はなんとかそれだけ口にした。
(そう……おまえには関係ない……!)
隆宗は真っすぐに弥吉を見つめた。
「邪魔するなら、おまえも殺す……。この家の問題だ。……もう出ていけよ! 関係ないだろ!?」
弥吉が息を飲んだのがわかった。
隆宗はきつく目を閉じる。
(ごめんな……弥吉。もう誰も巻き込みたくないんだよ……)
隆宗はゆっくりと目を開けると、信の足元にいる父親を見た。
父親は静かだったが、胸が上下に動いているところを見るとただ気を失っているだけのようだった。
(父上はなんとしても殺さなければ……! 同じことの繰り返しになる……!)
隆宗が心を決め、刀を持つ手に力を込めた瞬間、廊下に二つの人影が見えた。
「……隆宗様」
その声に、隆宗は弾かれたように廊下を見る。
(……そんな……まさか……)
二つの影はゆっくりと部屋に入ってきた。
髪の長い男に支えられて入ってきたのは、ずっと会いたいと願ってきた人物だった。
隆宗は目を見開く。
「弥一さん……、どうして……。体は……」
弥一は泣いていた。
二人は弥吉や信の横を通り過ぎ、隆宗にゆっくりと近づいてくる。
隆宗は思わず刀を下ろした。
「弥一さん……、危ないですから……これ以上近づかないでください……」
隆宗は震える声で絞り出すように言った。
弥一は止まるどころか、前のめりになって隆宗の元へ進む。
「弥一さん……本当に……危ないですから……!」
そのとき、弥一が何かに足をとられた。
「弥一さん!」
隆宗は慌てて刀を捨てると、膝をついて弥一を抱きとめた。
「隆宗様……!」
弥一の両手が隆宗の背中に回る。
その手にはほとんど力が入っていなかったが、隆宗は弥一の温かさを感じ、動くことができなくなった。
「隆宗様……! 本当に……申し訳ありません!」
弥一の体は震えていた。
「私は……自分のことしか考えずに……! すべてをあなたに背負わせてしまいました……。こんなに小さな背中に……。私はなんということを……!」
弥一は顔を上げる。
涙で濡れた弥一の瞳は、ただ隆宗だけを映していた。
「守ろうとしてくれたのでしょう……? あのとき約束を果たそうと弥吉を……。それに清さんや……この屋敷の奉公人たちのことを……。それなのに私は……」
弥一の言葉に、隆宗は目の奥が熱くなるのを感じた。
(ダメだ……。俺は……)
「私が愚かでした……。私は隆宗様にこんな重荷を背負わせたかったわけではありません! 清さんも……奥様も……皆、ただあなたの幸せを願っていただけなのです! 皆が守りたかったのは家ではなく隆宗様です……!」
堪え切れず、隆宗の目に涙が溢れた。
「そんなあなたが、傷つくことを誰も望んではいません……! もうお止めください……」
弥一の言葉に、隆宗の頬を涙が伝う。
「私は……何も守れなかったのです……」
隆宗は震える声で呟く。
込み上げるものを抑えることができなかった。
「清さんは……私のせいで父上に殺されてしまいました……」
隆宗の言葉に、信以外の全員が息を飲んだ。
「もっと早くこうすべきだったのです……。私がもっと気を配り、いろんなことに気づいていれば……清さんも、母上も……弥吉や弥一さんも……こんなことにはならなかったはずです……!」
隆宗は涙を止めることができなかった。
「……旦那様が……」
弥一は目を伏せた後、再び隆宗を見た。
「それでも……隆宗様には何の責任もありません。清さんが……自分が死んだからと、隆宗様が不幸になることを望むと思いますか?」
「それは……!」
「清さんがそんなことを望むような人ではないと、隆宗様が一番よくご存じでしょう?」
弥一は隆宗の目を真っすぐに見た。
「奥様も清さんも、今はもういません。私も、もうすぐいなくなるでしょう……。でも、忘れないでください。共に過ごした日々も、この想いも、決して消えることはありません。目の前からいなくなっても、ずっと隆宗様の幸せを望んでいます。いつまでも、ずっとです。……ですから、もうお止めください……」
弥一は隆宗の手を自分の手で包んだ。
「ひとりで背負わず、これからどうすべきか、一緒に考えさせてください。私たちは……家族なのでしょう?」
弥一は穏やかに微笑んだ。
隆宗は自分の中で冷たく固まっていたものが一気に溶けて、喉元に込み上げてくるのを感じた。
隆宗の口から言葉にならない何かが溢れ出す。
隆宗は弥一にしがみつき、声を上げて泣いた。
弥一が震える手で、隆宗の背中をさする。
背中に触れる手が温かく、その心地良さに隆宗は涙を止めることができなかった。
隆宗が落ち着きを取り戻した頃には、明るい日の光が部屋に差し込み始めていた。
状況は何も変わっていなかった。
母親と乳母は死に、すべての元凶である父親は生きていた。
けれど、隆宗の心は不思議なほど穏やかだった。
隆宗はゆっくりと顔を上げる。
弥一の優しげな眼差しを受けて、隆宗の心は決まった。
(最初から……こうすればよかったな……)
隆宗は温かな光が差す中で、静かに目を閉じた。




