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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第七章〜南天〜
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三日前②

「すみません、清さんを見ませんでしたか?」

 隆宗は、廊下を歩いてきた奉公人の男を呼び止めた。

「私は朝見かけて以降、見ていませんね……。もう夜ですし、この時間でしたら部屋で休んでいるかと思いますが……いなかったのですか? お急ぎでしたら、私も一緒に探しましょうか?」

「あ、いえ……。急ぎのようではないので……。ありがとうございます」

 隆宗は少しだけ目を伏せた後、視線を上げると笑顔で礼を言った。

「そうですか。もし見つからないようでしたら、またいつでも声を掛けてください」

 男は笑顔でそう言うと、一礼して廊下を歩いていった。


 隆宗は小さく息を吐く。

 乳母の部屋には先ほど行ったが、乳母の姿はどこにもなかった。

(どうしてだろう……。胸騒ぎがする……)

 隆宗は再び目を伏せる。

 乳母が夜更けに部屋を空けてどこかに行くことは、今までに一度もなかった。

(何かあったのかもしれない……)

 隆宗は拳を握りしめた。

(とにかく清さんを探そう……! 清さんが行くとしたら……)

 隆宗は視線を上げると、廊下を歩く足を速めた。


 隆宗は、今は物置になっている小屋に向かっていた。

 以前そこであったことを考えれば、乳母が再び小屋に行くことは考えづらかったが、心当たりはもうそこしかなかった。


 屋敷の外は薄暗かったが、月明りがあったため歩けないほどではなかった。

 小屋が見えてきたところで、隆宗は誰かが小屋の戸から出てきたことに気づいた。

(清さん……? じゃないよな……)


 隆宗は足を速めると、目を凝らした。

 その瞬間、何かが月明りに反射して光った。


「……!?」

 隆宗は息を飲む。

 小屋の戸から出てきた男は刀を持っていた。

 男は辺りを見回すと静かに刀を鞘に収めた。


(あれは……誰だ……? 誰かがこの屋敷に……)

 隆宗は咄嗟に身を隠そうと考えたが、隠れられる場所はそこにはなかった。


「誰だ!」

 気配に気づいたのか、男が声を上げた。

 隆宗の体がビクリと震える。

 その声には聞き覚えがあった。


「ち……父上……?」

 隆宗は思わず呟いていた。


「……なんだ隆宗か……」

 父親はホッとしたような声で言うと、ゆっくりと隆宗に近づいてきた。

 月明りに照らされ、しだいに父親の姿がはっきりと見えてくる。


 隆宗は目を見開き、息を飲んだ。


 笑う父親の頬には、赤い血飛沫のようなものがついていた。

 暗い色の着物もよく見れば赤く染まり、じっとりと濡れているようだった。


 隆宗の顔が恐怖で歪む。

 隆宗は思わず後ずさった。


「ああ、これか?」

 父親は隆宗の反応を見て、自分の頬に手を当て汚れを拭った。

 しかし、父親の手は真っ赤に染まっており、頬の汚れはますます広がっただけだった。


「隆宗、喜べ。伊予を殺したやつが見つかったんだ」

 父親が妖しげに笑った。


 隆宗は言葉を失う。

(伊予さんを……を殺した者……)

 隆宗の顔から血の気が引いていく。


「安心しろ。そいつは今、私が殺したから」

 父親の言葉に、隆宗は弾かれたように顔を上げた。

「殺し……た……?」

 震える唇は、麻痺したようにうまく言葉を発することができなかった。

 気がつくと、隆宗は小屋に向かって走り出していた。

 勢いよく小屋の戸を開けると、むせ返るような血の臭いがした。

 隆宗は思わず顔をしかめる。


 小窓からかすかに差し込む月明りで、誰かが倒れているのがわかった。


 隆宗は震える足で、一歩ずつ倒れている人影に近づいていく。

 赤く染まった着物が見える。

 その着物は、朝会ったとき乳母が来ていたものと同じだった。

 駆け寄ろうとして足がもつれ、隆宗は人影の上に倒れ込んだ。


 隆宗の目の前に、まるで眠っているような乳母の顔があった。

 その表情は穏やかだったが、触れた乳母の体はひどく冷たかった。

「あ……ああ……」

 隆宗はうまく息ができなかった。

 言葉の変わりに、目から溢れるものがこぼれて乳母の頬を濡らしていく。

(どうして……どうして……こんなことに……)

 隆宗は、乳母の顔に落ちた雫を拭おうと手を伸ばし、触れる直前で動きを止めた。

 隆宗はゆっくりと自分の手のひらを見る。

 隆宗の両手は真っ赤に染まっていた。

 両手だけでなく、隆宗の着物もすべてが赤く染まっていた。

(俺のせいだ……俺が……)


「そいつが伊予を殺してたんだ」

 隆宗の背後で、呆れたような父親の声が響く。

「まったく……とんでもないことをしてくれたものだ……」

 父親は大きなため息をついた。


 隆宗は視界が霞む中、ゆっくりと父親を振り返った。


「計画も遅れてしまったが……。まぁ、仕方ない……。そろそろ動けるだろう」

「……え?」

 隆宗の顔が歪む。

「前におまえにも話しただろう? 私は世の中を作り変えるつもりだと。そのときが来たんだ」

 父親はどこか興奮したような声だった。

「ま、待ってください……父上……。今回のことで、この屋敷は注目を集めています……! そのようなことは……」

「安心しろ。手は打ってある」

 父親は隆宗の言葉を遮るように言った。

「しかし、失敗すれば屋敷の奉公人たちも皆……」

「成功させればいいんだ。いいか、隆宗。正義とは常に勝者のものだ。謀反も成功すれば、それが正義の行いとなる」

 隆宗は言葉を失った。


「さぁ、その死体はこちらで処理するから、おまえはもう部屋に戻るといい。そんな死体に触れて気持ち悪いだろう?」

(気持ち……悪い……?)

 隆宗は唇を噛んだ。


 いつの間には、父親の背後には二つの影があった。

 二人の男がゆっくりと隆宗に近づいてくる。


「私たちが死体の処理をしておきます」

 不気味な笑顔を浮かべながら、男たちが乳母の体に触れる。


 隆宗は込み上げる怒りをなんとか抑えた。


「さぁ、坊ちゃんは部屋にお戻りください」

 もうひとりの男もニヤニヤしながら、隆宗に言った。


「ほら、早く部屋に戻るんだ」

 父親の言葉に、隆宗はよろめきながら立ち上がった。



 その後、隆宗はどのように部屋に戻ったのか記憶がなかった。

 気がつくと、隆宗は自分の部屋に座り込んでいた。

 暗い部屋の中で、行灯のかすかな光が揺らめいている。


 隆宗は視線を落とし、自分の姿を見た。

 薄暗い中でも、全身血にまみれていることがわかる。


「清さん……」

 隆宗は頭を抱えてうずくまった。

 隆宗の脳裏に乳母の顔が浮かぶ。


『隆宗様……。実は私、子育ての経験がないんです。本来経験がないと、乳母にはなれないものなんですよ。でも、奥様が……死産した私に言ってくださったんです。乳母はあなたがいい、と。育てられなかった自分の子を想うように、この子を育ててほしいと……。ですから私にとって、隆宗様も弥吉も、我が子のように愛おしい存在なんですよ』

 笑う乳母の姿が、鮮やかによみがえる。


「清さん……、俺のせいで……! 本当に……ごめんなさい……本当に……!」

 隆宗は喉を押さえ、声を殺して泣いた。

「どうして……こんなことに……!」

 そう口にした瞬間、隆宗の脳裏に父親の歪んだ顔が浮かんだ。


 隆宗はゆっくりと顔を上げる。

「そうか……。止めようとしたのが間違いだったんだ……」

 隆宗の顔には、もはやなんの感情も浮かんではいなかった。

 

 隆宗は血まみれの着物を脱ぐと、部屋の隅に投げ捨てた。

 体についた血を布で拭い、新しい着物に袖を通すと、隆宗は少しだけ落ち着きを取り戻した。


「すべての原因の……元を絶つべきだった……」

 隆宗は頬を伝う涙を拭った。

 隆宗は真っすぐに前を見据える。


「すべて……終わりにしましょう、父上……」

 隆宗の仄暗い瞳から一筋の涙がこぼれ、弾けるように畳に落ちた。

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