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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第一章~山桜~
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逃亡

 吉原の大門が閉まる少し前、信は吉原に入った。

 信が向かったのは玉屋でも菊乃屋でもなく、吉原の端にある切見世の長屋だった。

 いつもは賑っている吉原も、大門がまもなく閉まる時間とあって人影は少ない。

 信は切見世のひとつの戸の前で足を止めた。

 中からは激しく咳き込む音が聞こえている。

 信は静かに戸を開けて中に入った。

 座敷の奥で布団に横たわる人影が気配を感じて息を止めたのがわかる。

「あの……、今日は…もう休ませていただいていて……」

 息を整えながら、女が言った。

「鈴か?」

 信が戸口に立ったまま聞いた。

 鈴はゆっくりと体を起こす。

「どなた……ですか?」

「おまえの兄が探している」

「お兄様が!?」

 鈴は声を大きくした途端にまた激しく咳き込んだ。

「大丈夫か?」

 信は鈴に近づいて、横にしゃがみこむ。

「は……はい……」

 鈴は顔を上げる。

 鈴の左頬は腫瘍によって赤く盛り上がっていた。

 口元と手のひらは血で染まっている。

「お見苦しいところを……お見せして……」

 鈴は力なく微笑み、枕元にあった布で手のひらと口元の血を拭った。

「見苦しくない。大丈夫か?」

 鈴は信を見て微笑むと首を縦に振った。

「とりあえず、ここを出るぞ」

 信が立ち上がる。

「ここをですか? ……私はまだここで働かないと……」

 鈴は目を伏せる。

 信はただ静かに鈴を見ていた。


「いいのか?」

 信は抑揚のない声で聞く。

「おまえ、もうすぐ死ぬぞ。悔いはないのか?」

 鈴は弾かれたように顔を上げた。

 唇をかみしめて信を見る。

「……行くか?」

 信は手を差し出した。

 鈴はしばらくためらった後、そっと信の手を取った。

 ゆっくりと立ち上がると信に手を引かれて長屋の外に出た。

「あ、待って」

 鈴は足を止める。

「あの明日、私に会いに人が来ることになっていて……」

「ああ、美津という女から聞いている。明日俺から説明しておく」

 鈴は目を見開く。

「美津に会ったんですか? 美津は……元気でしたか?」

 鈴は縋るように信を見た。

「ああ、おまえよりはだいぶ元気そうだった」

 信は淡々と答えた。

 鈴は少し笑う。

「そうですか。よかった……」


 信は長屋の裏に置いてあった荷車を持ってくると、荷台を指して鈴に横になるように言った。

 鈴はためらいながら、荷台に横たわる。

「あの……これはもしかして……」

 信は何も言わず上からゴザのようなものをかけた。

「あ、やっぱり……」


「おい! そこで何してる!?」

 男が声を荒げて信に近づく。

「なんだこれは!?」

 男は荷車を指差して言った。

「あそこの女が死んだんで、投げ込み寺に捨ててこようかと」

 信はいつも通りの口調で答える。

 男が少したじろぐ。

「おまえ……、よくそんな淡々と……」

「見ますか?」

 信が鈴にかかったコモをめくろうとする。

「いや! いいよ! 見たくはない!!」

 男が全力で止める。

「もうすぐ死ぬだろうとは思ってたし、捨ててきてくれるなら有難い……。もう行っていいぞ!」

 信は頭を下げると荷車を引いて大門に向かう。


 大門に着くと信は門番に止められた。

「その荷はなんだ?」

 門番は怪訝な顔で荷台を見る。

「遊女が労咳で死んだので、投げ込み寺に捨ててくるように言われました」

 門番はコモをめくる。

 そこには着物や口元を血で汚し、髪を振り乱した土気色の顔の女が横たわっていた。その頬は腫瘍で赤く腫れ上がっている。

「こりゃ、ひどいな……」

 門番は顔をしかめ、コモを元に戻すと、荷台に向かって手を合わせた。 

「行っていいぞ」


 信は頭を下げると荷車を引き、大門を出た。

 吉原を出てしばらく進むと、鈴がコモをどけて顔を出した。

「こんなに簡単に出られるなんて……」

 鈴は天を見たまま呟いた。

「おまえ、上手いな。本当に死んだかと思った」

 鈴はふふっと笑う。

「本当に死にかけてますからね。咳き込んで血が出てたので、ちょうどよかったです」

「そうか」

 信はそれだけ口にした。

「生きて……大門を出られるとは思っていなかったです」

「そうか」

「ああ……、風が気持ちいい……。あ、朧月……。明日は雨でしょうか?」

 信も空を見上げた。

 そこには雲ひとつかかっていない綺麗な満月があったが、信は何も言わなかった。

「綺麗……」

 鈴の瞳からこぼれた一筋の光が、そっと荷台を濡らした。

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