悪いのは
部屋の灯りが揺らめいた。
眠ろうとしていた女は、それを見て布団からゆっくりと体を起こす。
「どうだった?」
女は暗闇に向かって口を開いた。
「はい、千代の方様のおっしゃっていたとおり、今のところ危険はなさそうでした」
暗闇の中に、男の声が響く。
「そうか……。それならよかった……」
女は息を吐く。
「あ、誰もいないときは紫苑でいいと言っただろう? おまえは何度言っても忘れるなぁ」
紫苑は呆れたように言った。
「はい、紫苑様」
「うん、それでいい」
紫苑は微笑んだ。
「それで……、桜は元気そうだったか?」
紫苑は少しだけ目を伏せた。
「はい、健やかに育っておられます。それに、以前にも増して紫苑様に似てきたように思います」
「そうか。それなら相当な美人だな」
「…………はい」
二人のあいだに沈黙が流れる。
「なんだ? 否定してもいいんだぞ」
紫苑は笑いを堪えるように言った。
「いえ、否定はいたしません」
男は淡々と答える。
「ああ。ただ、人とお話しをされているときの雰囲気は、どこか宗助様にも似ていらっしゃっると思いました」
紫苑はわずかに目を見張る。
「……そうか」
紫苑は暗闇に向かってニヤリと笑った。
「それなら、めちゃくちゃいい女には育っているな」
「はい」
「やはり託してよかった……」
紫苑はゆっくりと息を吐くと、目を閉じた。
「余計なことを申しますが……紫苑様がお決めになったこととはいえ、寂しくはないのですか?」
男の言葉に、紫苑はゆっくりと目を開ける。
「おまえがそんなこと言うなんて珍しいな……。そうだな……、寂しくないとは言えないが……、自分以上に寂しい思いをさせたくない者がいるからな。その者たちが寂しくなければ、それでいい」
紫苑は微笑んだ。
「それに、今ではここに私を想ってくれる者も多いから、それほど寂しくはない。昔はあんなに嫌われていたのに、今では大奥の女はほとんどみんな私のことが好きだろう? 男より女にモテるようになるとは思わなかったな」
紫苑はクスクスと笑った。
「はい、まぁ……そうですね。紫苑様はヘタな男より言動が男前ですから」
「男前ねぇ。まぁ、ここで生きていくには都合がいい」
「そうかもしれませんね」
男の言葉に、紫苑はフッと笑った後、ゆっくりと目を伏せた。
「宗助も……元気そうだったか?」
「はい、お変わりありません」
「相変わらずのいい男だったか?」
「そうですね。今でも若々しく聡明でいらっしゃるとは思いました」
「そうか」
紫苑は満足げに微笑んだ。
「紫苑様は今でも……一途に宗助様を想っていらっしゃるのですね」
男が気遣うように言うと、紫苑は目を丸くした。
「一途?」
紫苑は思わず吹き出した。
「一途って……」
紫苑はお腹を抱えて笑った。
「そんな……健気なものじゃないさ。単純に……」
紫苑は笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を拭う。
「あいつよりいい男が私の前に現れないってだけだ」
「…………そうですか」
「ああ、それだけだ。もうこの世で会うことはないだろうがな」
紫苑はそこで少しだけ笑った。
「まぁ、桜のことといい、かなり無茶なことはしているからな。あの世で文句を言われることは覚悟している」
紫苑の言葉に、男が暗闇の中で息を飲んだ。
「あの世まで……宗助様に関わるおつもりなのですか……?」
「ふふ、どうだろうな」
紫苑はニヤリと笑った。
「…………一途と申し上げたこと訂正いたします。凄まじい執着ですね。宗助様に少しだけ同情してしまいます……」
紫苑は楽しそうに笑う。
「執着! 今度はまた随分と失礼な……。でも、仕方ないさ」
紫苑は布団の上で膝を抱えると、にっこりと笑った。
「私の前に現れた、あいつが悪い」
男は息を飲み、静かに息を吐いた。
「…………そうですね。それが宗助様の宿命ということなのでしょう……」
「ふふ、そうだな」
「遅い時間に申し訳ありません。それでは、私はこれにて失礼いたします」
男はそう言うと、暗闇の中で気配を消した。
「一途に……執着か……」
ひとりになった部屋で紫苑は小さく呟いた。
「なかなかしっくりくる言葉ってないもんだな……。まぁ、あの世で会うまでに考えておけばいいか……」
紫苑はそう言って微笑むと、ゆっくりと体を横にした。
思っていた以上に疲れていたのか、紫苑は一気に体が重くなったのを感じた。
静かに目を閉じると、唐突に紫苑の目の前に懐かしい故郷の桜並木が広がった。
(ああ、これは……。久しぶりに……いい夢が見られそうだな……)
紫苑は小さく微笑んだ。
桜が舞い散っている。
紫苑は眩しさに目を細めた。
背負われて桜を見上げていた紫苑は、自分を背負いながらブツブツと文句を言っている温かい背中に、強く強く抱きついた。




