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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第六章〜紫苑〜
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二十二年前④

 何かが砕けるような高い音がした。

「おやめください!! 姫様!!」

 紫苑の部屋で叫ぶような女の声が響いた。


 部屋の前を歩いていた宗助は、慌てて部屋の襖を開ける。


「これは一体……」

 宗助は目を見開き、思わず呟いていた。


 紫苑の部屋は泥棒でも入ったかのように荒れ果てていた。

 着物が破られた状態で散乱し、棚や床の間に飾ってあった花瓶や壷はすべて割れていた。

 そんな中で奉公人の女と紫苑がもみ合っている。

 女は紫苑の両手首を掴み、紫苑を必死で抑えているように見えた。

 

 紫苑の手には割れた陶器の欠片が握りしめられていて、その手は血で赤く染まっている。

「宗助さん! 宗助さんも止めてください! 姫様が!!」

 宗助が入ってきたことに気づくと、女は必死の形相で宗助を呼んだ。


「あ、はい!」

 宗助は慌てて二人のもとに駆け寄る。

 紫苑の顔に表情はなく、紫苑は宗助が来たことにもまったく気づいていないようだった。


(どうしたんだ……一体……)


 宗助は戸惑いながら、そっと紫苑の手首を掴んだ。

「姫様……、どうしたんですか……?」


 紫苑がハッとしたように、宗助の顔を見る。

「ああ……、宗助か……」

 紫苑はゆっくりと目を伏せると、腕の力を抜いた。


 宗助は紫苑の手からすばやく陶器の欠片を抜き取った。

 欠片にはべっとりと血がついている。

 宗助は血だらけの痛々しい紫苑の手を見て、思わず顔をしかめた。


「すみません……、水と清潔な布を持ってきていただけませんか?」

 宗助は女に向かって言った。

 女は紫苑を心配そうに見ていたが、宗助を見てゆっくりと頷く。

「わかりました……。姫様をお願いします」

 宗助が頷くのを確認すると、女は部屋から出ていった。


 宗助は茫然としている紫苑の肩を掴むと、支えるように破片の落ちていないところまで移動し、ゆっくりと座らせた。

「おい、大丈夫か? 何があったんだ……?」

 紫苑はゆっくりと宗助に視線を向ける。

 その瞳は暗く、まるで何も映していないようだった。

「紫苑……?」


「ちょうどよかった……」

 紫苑は引きつった笑顔を浮かべた。

「少し手伝ってくれないか……?」


 宗助は紫苑を見つめる。

 どう見ても、いつもの紫苑とは様子が違っていた。

「……何をだ?」

 宗助がかすれた声で聞く。


 紫苑は血に染まった手で、自分の頬に触れた。

「顔をズタズタにするのを……手伝ってくれないか?」

 宗助は息を飲んだ。

「おまえ……何を……」


 紫苑の頬に触れていた手が、ゆっくりと畳の上に落ちる。

「そうしたら……行かなくてもいいかもしれないから」

 紫苑の瞳は静かに濡れていた。

「着ていく着物がなく、顔もズタズタの女なら、行かなくても許されるかもしれないだろう……?」

 宗助は言葉が出なかった。


(どこに行くっていうんだ……)


「どうして奥なんかに……!」

 紫苑の唇はかすかに震えていた。

「……奥?」

 紫苑は乾いた笑いを浮かべた。

「江戸の大奥だ……」


 宗助は目を見開いた。


「どう……して……」

 宗助がそう言いかけた瞬間、紫苑が手を伸ばして落ちていた陶器の欠片を掴んだ。

「紫苑!!」

 紫苑が顔を切りつけるより早く、宗助が紫苑の手首を掴む。

「何やってるんだ!? やめろ!!」

 紫苑の濡れた瞳に、宗助が映った。

「じゃあ、どうすればいい!? 大切なものは全部ここにあるのに! どうしてそんなところに行かなければいけないんだ!?」

 紫苑の顔が今にも泣き出しそうに歪む。


「ああ……」

 紫苑は軽く笑った後、わずかに目を伏せた。

 長い睫毛が涙で濡れている。

「そういえば、前に顔は可愛いと言ってくれたか……」

 紫苑は宗助を見つめる。

 紫苑の瞳に戸惑った宗助の顔が映し出された。

「この顔は好きか? ……おまえが好きだと言ってくれるなら、もう傷つけないから……」


 宗助は目を見開いたまま、何も答えることができなかった。

(俺……は…………)


 紫苑は力なく微笑むと、静かに目を閉じた。

 目からこぼれた涙が、頬についた血と混じり畳に赤い雫が落ちる。

「悪い……。今、私はどうかしているんだ……。気にしないでくれ……」


「紫苑……」


 そのとき、襖が開く音がした。

「宗助さん! 水と清潔な布を持ってきました!」

 奉公人の女が桶に入った水と布を持って二人に駆け寄る。


「頭が冷えた」

 紫苑は宗助に向かってぎこちなく微笑んだ。

「もう大丈夫だから、行ってくれ。何か仕事の途中だったんだろ?」

「いや、しかし……」

 宗助がためらっていると、紫苑が宗助の着物の袖を掴んだ。

「頼む……。もう行ってくれ……」

 紫苑は顔を伏せていて、その表情はわからなかった。


「……わかった」

 宗助はゆっくりと立ち上がると、女に視線を向けた。

「手当てを頼みます……」


 女は力強く頷くと、水の入った桶を置いて紫苑の前にしゃがみ込んだ。



 宗助は茫然としたまま、紫苑の部屋を後にした。

(紫苑が……大奥に……?)

 理解が追いつかなかった。

(紫苑が…………いなくなるのか?)


『宗助!』

 聞き慣れた声が聞こえた気がして振り返ったが、そこに紫苑の姿はなかった。


 宗助の胸がざらりと嫌な音を立てる。

「紫苑、俺は……」

 宗助は天を仰ぐと、静かに目を閉じた。

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