あの日のこと
「これは……?」
咲耶が持ってきた桐の箱を見て、叡正は首を傾げた。
「前に言っていた礼だ」
叡正に桐の箱を渡した後、咲耶は少し迷ったが布団の上に再び腰を下ろした。
「礼なんてよかったのに……」
叡正は桐の箱を見つめながら困惑したように言った。
咲耶は叡正を見て微笑む。
「ほんの気持ちだ。受け取ってくれ」
叡正は申し訳なさそうな顔で咲耶を見た後、桐の箱に視線を落とした。
「開けてもいいか?」
「ああ」
咲耶はにっこりと微笑んだ。
叡正が箱を開けると、そこには木の鞘に納められた短刀があった。
「白鞘の短刀……」
鞘も柄も木でできた簡素なその短刀には、柄の一ヶ所にだけ金色の家紋が入っていた。
「うちの家紋か……」
叡正はどこか寂しげに微笑んだ。
今はもうない叡正の生家の紋だった。
「ああ、おまえの家のものは、もう何も残っていないんだろう? 短刀くらいは持っていてもいいんじゃないかと思ってな……」
叡正はしばらく短刀を見つめていたが、やがて目を閉じるとそっと箱を閉じた。
「……ありがとう。大切にさせてもらう。まぁ、僧侶に使う機会はないだろうけどな」
「そうだな。まぁ、また寝込みを襲われたときにでも使ってくれ」
咲耶は冗談のつもりで言ったが、叡正の顔がサッと青ざめる。
「…………もしできるなら、もう思い出させないでくれ」
「あ、わ、悪い……」
叡正のあまりに暗い表情に、咲耶は気まずくなり目を泳がせた。
「と、ところで、火事のとき、おまえがここまで私を運んでくれたんだろう? す、すまなかったな……」
咲耶は慌てて話題を変える。
「あ、いや。俺は本当に運んだだけだから……。礼なら助けた信に言ってくれ」
叡正は表情を曇らせると、そっと目を伏せた。
「俺は何もできずに見ていただけなんだ……」
咲耶は目を丸くする。
「そんな、気にすることじゃない。あれだけの火事だったんだから、何もできなくて当然だ」
「ああ、でも信は……」
叡正はそれだけ言うと目を閉じた。
咲耶は叡正を見つめる。
(本当に気にする必要はないんだが……)
咲耶は再び話題を変えることにした。
「そういえば、信の火傷は大丈夫そうだったか……?」
咲耶の言葉に、叡正は目を開ける。
「腕と足は酷かった……ように見えた……。良庵先生が言うには、奇跡的に火傷からの感染症はなかったらしいから、ところどころ痕は残るが治るだろうって話しだった」
「そうか……」
咲耶は胸を撫でおろした。
咲耶の脳裏に、裏茶屋で見た信の泣き出しそうな顔が浮かぶ。
「その、信なんだが……、私と一緒に裏茶屋から出てきたとき……どんな顔をしていたかわかるか?」
咲耶はあのとき見た信の姿が、現実であったのかわからなかった。
(本当に泣き出しそうな顔をしていたのか……?)
「信の顔……」
叡正はそう呟くと、困ったような表情で咲耶からそっと視線をそらした。
「えっと……、なんていうか……。その場の人間を皆殺しにしそうな顔を……していた……かな?」
「は!?」
咲耶は目を丸くする。
「え……、怒っていたってことか……?」
「ああ、すごく控えめに言えば……怒っていたと表現できなくもないかな……」
「そんなにか……」
「……ああ」
叡正は深く頷いた。
(じゃあ、あれはやはり夢だったのか……?)
咲耶は口元に手を当てて、あのときの信の顔を思い出していた。
(夢なら、夢の方がいいのか……)
咲耶は静かに息を吐いた。
「あ、そうだ……」
叡正は何かを思い出したように咲耶を見た。
「火事のとき、弥吉がいたんだ」
「弥吉……?」
弥吉はここ数日玉屋に来ていないと、咲耶は緑から聞いていた。
「ああ、信と何か話していて……。『おまえは何も悪くない』とかなんとか……」
咲耶は目を見開いた。
「その後、弥吉が泣き崩れて……。『できる範囲で守れれば』とか何か呟いてて……」
叡正は思い出しながら、聞こえた内容を話した。
(そういうことか……)
咲耶の中ですべてがつながった気がした。
「俺はおまえを運ぶために、その後裏茶屋を離れたから……あれからどうなったんだろうと気になっていたんだ……。良庵先生が信のところに行ったときに、弥吉は信のところにいないようだと言っていたが……。一体、どうなっているんだ……?」
「そうか……」
咲耶は目を伏せた。
「私にもよくわからないんだ……。特に弥吉のことは今初めて聞いた……。教えてくれてありがとう」
「そうなのか……」
叡正も目を伏せた。
「よくはわからないが……弥吉はいいやつだから、早く戻ってきてほしいな」
咲耶は顔を上げると、窓の方を見た。
(弥吉は一体どこに行ったんだろうか……)
咲耶は目を閉じ、息を吐いた。
「ああ、いい子なんだ……。また戻ってきてくれるといいが……」
咲耶は窓を見たまま、祈るようにそっと目を閉じた。




