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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第五章~黒百合~
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出会った時と…

(これはダメかもしれないな……)

 火こそ見えなかったが、黒い煙はすでに部屋に充満していた。

(一階に続く階段は燃えていたし、窓の格子も私の力では壊せない……)

 咲耶は煙を吸わないように着物の袖で口を覆い、外の空気が入る窓のそばに立っていたが、それでもかなり息苦しくなってきていた。

(これが故意に起こされた火事なら、何か細工されていてもおかしくないしな……。少なくとも階段は使えないし、外から梯子が掛からないところを見ると隠されているのかもしれないな……)

 咲耶は眩暈がして、ずるずるとその場に座り込んだ。


(ここまで煙が充満すると、立っていても意味ないか……)

 咲耶は苦笑した。

(まさか、こんなところで死ぬことになるとは……)

 咲耶は煙を吸い込み、咳き込んだ。

 息をするたびに入ってくる煙でうまく呼吸ができなかった。

(苦しいし、熱いな……)

 咲耶は額の汗を軽く拭う。

 火は見えなかったが、熱さから炎がすぐ隣の部屋まで迫っているのがわかった。

 全身から汗が噴き出す。


(心残りは……意外とないな……)

 咲耶は目を閉じた。

(悔いのないようには生きてきたつもりだし……。やり残したことも……。あ……)

 咲耶はふいに思い出して目を開けた。

(叡正へのお礼……まだ渡していなかったな……。……まぁ、手配はしたから、誰か渡してくれるだろう……)

 咲耶は苦笑した。

(人の最期ってこんなふうなんだろうか……。私がおかしいのか……?)

 咲耶はしだいに瞼が重くなっていくのを感じた。

(後悔はない……。ただ……ああ、そうだ……)


 咲耶の脳裏に、手を差し出して微笑む信の顔が浮かんだ。


(もう一度……笑った顔は見たかったかもしれないな……)




 咲耶が目を閉じた瞬間、聞き慣れた声が耳に届いた。


「……! ……や! ……咲耶!」


(幻聴……か?)

 咲耶は重い瞼を何とか動かす。

 その瞬間、黒い煙の中から、腕と見慣れた顔が現れた。

(……え?)

 薄茶色の髪に薄茶色の瞳。

 見慣れているはずのその顔は、見たこともない悲痛な表情を浮かべていた。

 今にも泣き出しそうな顔が咲耶の目の前にあった。


(あ……お姉さんのことがあるから……)

 咲耶は大丈夫と口にしたかったが、声がうまく出てこなかった。

(言わないと……)

 咲耶がもう一度声を出そうとしたとき、ひんやりとしたものが体を包んだ。

(え……?)

 信の両腕が咲耶の背中に回る。

 壊れ物に触れるように、信は咲耶を抱きしめた。

 炎の熱気の中、信の纏うひんやりとした空気で咲耶は少し呼吸がしやすくなった気がした。


「咲耶……」

 すぐ耳元で絞り出すような、信の声が響く。



「死ぬな……」



 咲耶は目を見開いた。



「頼む……。死なないでくれ……」

 信の声は少しだけ震えていた。


 咲耶は重い腕を動かして、そっと信の背中を撫でる。

 信は弾かれたように体を離し、咲耶を見た。


「……死な……ない」

 咲耶は何とか口を動かすと微笑んだ。

「最初と…………逆だな……」

 咲耶は思わず笑っていた。

「死なない……約束する……から……」

 咲耶は信の頬に手を伸ばそうとしたが、どうしても目が開けていられなかった。

 重い瞼が閉じるのと同時に、咲耶は意識を失った。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 叡正は茫然と炎に飲まれていく茶屋を見つめていた。


『伝えたい想いがあるなら、できるだけ早く伝えろ』

 ふいに、以前雪之丞に言われたことが頭に浮かんだ。


 叡正は両手で顔を覆う。

(そうだ……。いつだって突然いなくなるって……わかってたはずなのに……)

 背を向けた父の姿、血まみれの母の姿、腕の中で微笑んで逝った妹の姿。

 叡正の脳裏にさまざまなものが浮かんでは消えていった。


(俺はどうして……)


 叡正が顔を上げたその瞬間、バキッという大きな音が辺りに響いた。

 叡正は思わず音のした方に目を向ける。

 そこは二階で唯一まだ炎に飲まれていない場所だった。

 黒い煙に覆われてよく見えなかったが、そこから何か黒い影が落ちていくのが見えた。


「な、なんだ……?」

「何か落ちたぞ……」

 火を消そうとしていた男たちが、何かが落ちた方へと足を進める。



「人だ! 人が……」

 男の一人が明るい声を上げたが、その声は不自然なかたちで途切れた……。


 叡正の目にも黒い煙の中から、誰かがこちらに向かって歩いてきているのがわかった。

(信……なのか……?)

 茶屋の中に入っていたのは、信だけだった。

 煙を抜けると、その姿は叡正の目にもはっきりと見えた。


 信が咲耶を抱きかかえて歩いている。

 叡正は喜びで声を上げそうになったが、実際には口から言葉を発することはできなかった。


 信の腕や足は火傷で赤黒く変色し、束ねていた髪は解け、着物もところどころ焼けていた。

 何より信の目が、この場にいる全員を殺すのではないかと思うほど殺意に満ちていて、誰も声を出すができずにいた。


 信は真っすぐに叡正の方に歩いてきた。

 皆が固唾を飲んで見守る中、信は叡正の前で足を止める。

「咲耶を頼む」

 信はそう言うと、咲耶に視線を落とす。

 咲耶は信の腕の中で、ただ眠っているように穏やかな顔をしていた。

 叡正はホッと胸を撫でおろす。


「あ、ああ。わかった……」

 信は、咲耶を叡正に任せると、そのまま人だかりの方に進んでいこうとした。

「お、おい……。どこに行くんだ……? おまえ火傷……診てもらないと……」


 叡正の言葉に、信はゆっくりと振り返った。

「やることがある……」

 信の鋭い眼差しに、叡正の背中に冷たいものが走る。

(やること……?)


 信はそれだけ言うと、再び前を向いた。

 道を遮っていた人たちが一斉に道を開ける。

 信はそのまま真っすぐ歩き出した。


「……信さん……」

 声を掛けたのは青ざめたままの弥吉だった。

「俺……、俺は……」


 その瞬間、叡正には信の纏う空気が少しだけ柔らかくなったように見えた。


 信はゆっくりと腕を上げると、弥吉の頭をポンポンと叩いた。

「おまえは……何も悪くない……」


 信の言葉に、弥吉は弾かれたように顔を上げた。

 その目がゆっくりと見開かれていく。


「なんで……? まさか……わかってたの……?」

 弥吉が震える声で聞いた。


 信は何も応えず、再び前を向いて歩きだした。


「どうして……」

 弥吉はそれだけ呟くと、足元から崩れ落ちた。


「お、おい……」

 叡正は咲耶を抱えながら、弥吉に駆け寄った。

「大丈夫か……?」


 弥吉は何も聞こえていないように、頭を抱えうずくまった。

「俺は……」

 涙交じりのくぐもった声が、叡正の耳にかすかに届いた。

「俺のできる範囲で……守れればって……」


 叡正は弥吉を見つめる。

(一体、どういうことなんだ……?)

 叡正は腕の中の咲耶に目を向けた。

 咲耶は変わらない穏やかな表情で、ただ眠り続けていた。

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