蠢く炎
叡正は昨日会ったばかりの咲耶のもとに向かっていた。
(しまった……。一番の用事を忘れて帰るなんて……)
叡正は懐から紙を取り出した。
咲の様子を見に行ったとき、良庵から咲耶に渡すように頼まれた紙だった。
叡正にはよくわからなかったが、その紙には薬草の名前がびっしりと書かれていた。
『これ、今ほしいやつ。ひとまずこれだけにしといてやるが、これぐらいじゃ全然足らないからな!』
叡正は良庵の言葉を思い出していた。
(早く渡さないと絶対怒られる……)
叡正はため息をつくと、紙を懐に仕舞った。
(今日は裏茶屋で信と会うんだっけ……)
よく使っている裏茶屋の場所はわかっていたため、叡正はそちらに足を進めていた。
(あ、あれは……)
叡正は少し前に薄茶色の髪の男が歩いているのを見つけた。
(こうやって人の多いところで見ると、信は目立つよな……)
叡正は足を速め、信の元に向かう。
信に手が届くくらい近づいたところで、信は突然足を止めて振り向いた。
声を掛けようとした瞬間に振り向かれ、叡正が目を丸くする。
「なんだ、気づいてたのか……」
叡正の顔を見ても、信に驚いている様子はなかった。
「ああ、足音で気づいた」
信は淡々と答えると、再び前を向いて歩き出す。
(足音って……)
叡正は信の横に並んで歩きながら、横顔を見つめる。
夜見世まで時間があり、まだ人が少ないとはいえ叡正以外にも何人もの人が行き交っていた。
(やっぱり人間離れしてるよな……)
叡正の視線に気づいたのか、信が叡正を見た。
「どうした?」
叡正は苦笑する。
(まぁ、ちょっと慣れてきたかな……)
「あ、そうそう……。これを渡しておいてもらえないか? 咲耶太夫に……」
「大変だ!! あっちの裏茶屋で火事だ!!」
叡正が懐に手を入れようとした瞬間、叫ぶような男の声が響いた。
(え……、火事……?)
信と叡正の足が自然と止まる。
「火事って……。火消しは? もう来てるのかい? こっちまで燃え広がりそう……?」
そばにいた女が不安げに、男に声を掛ける。
「火消しはまだみたいだ……。もう裏茶屋全体に火が広がってる。ここまではさすがに大丈夫だとは思うが……」
男の言葉に女はホッとしたように息をついた。
「なんでも二階から火が出たみたいで、茶屋の店主は逃げられたみたいだけど、客は……」
男は沈痛な面持ちで口を閉ざした。
(…………客が……まだ中にいるのか……?)
叡正が信を振り返るより早く、信は裏茶屋に向かって駆け出していた。
「お、おい……!」
叡正も信を追って走り出す。
鼓動の音がすぐ耳元で響いていた。
(そんな……まさか……。信がまだここにいるってことは、咲耶太夫だってまだ着いていないはずだ……。そんなこと……あるはずない……)
進むほど少しずつ人が増えていく。
人だかりの向こうに、炎に包まれている茶屋が見えた。
風に煽られ、炎は茶屋のすべてを飲み込もうとしている。
(嘘……だろ……?)
叡正は人をかき分けて、茶屋に向かって進んでいく。
茶屋の目の前まで来ると、そこには茶屋を見つめ頭を抱えてうずくまっている男がいた。
「そんな……咲耶太夫が……まだ中にいるのに……」
男の絞り出すような声が聞こえた瞬間、叡正は頭の中が真っ白になった。
茶屋の前では、男たちが桶で水をかけていたが、まったく炎が衰える様子はない。
「梯子は!? どこかに梯子はないのか!?」
男の声が響く。
「見つからない! 火消しは!? 火消しはまだ来ないのか……!?」
叡正は足元から崩れ落ちた。
(嘘……だろ……?)
そのとき、薄茶色の髪が視界の片隅で揺れるのが見えた。
「おい! やめろ!!」
叡正がぼんやりと声の方に目を向けると、信が火を消そうとしていた男から桶を奪ったところだった。
(信……?)
信は桶に入った水を頭から被ると、燃え盛る炎の中にそのまま飛び込んだ。
「な……!?」
叡正は思わず立ち上がった。
無意識に茶屋に向かって駆け出すと、周りにいた男たちが叡正の腕を掴む。
「やめろ! 死ぬぞ!! あの男は……止めたんだが……」
腕を掴んだ男はそう言うと苦しげに目を伏せた。
「そんな……」
叡正は目の前で生き物のように蠢く炎を見つめた。
近くにいるだけでも焼けるような熱さを肌に感じる。
「ほら、危ないからもう少し離れろ」
男に腕を引かれて、叡正は人だかりの方に連れていかれた。
ふと顔を上げると、人だかりの一番前に茫然と立ち尽くす弥吉の姿があった。
「こんなの…………聞いてない……」
絞り出すような声が、叡正の耳に届く。
弥吉の顔は、今までに見たことがないほど青ざめていた。
(聞いてない……?)
その瞬間、メキメキという音が響き、叡正は思わず振り返った。
大きな音とともに茶屋の一部が崩れた。
火の粉が舞い上がり、人々から悲鳴が上がる。
(どうして……こんなことに……)
叡正は膝をつき、ただ茫然と炎に飲まれていく茶屋を見つめていた。




