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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第五章~黒百合~
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一年前③

(俺はどこに向かっているんだ……?)

 気がつくと、信は山を下りて町を歩いていた。


(殺す……。あいつを殺してやる……)

 信の頭の中で声が響く。


(そうだ……、お館様を殺しに……。でもどこに……? それに、そんなことをしたところで……)

 信は目を伏せた。


(すべておまえが望んだことだろう? よかったじゃないか? これで自由だ)

 頭の中で響く声に、信は頭を抱えて首を振る。

(神様はおまえの望みを叶えてくれたんだな。足手まといの姉の死を望んでいただろう?)


 信は耳を塞いだ。

「違う……」

(違わないだろう? 願ったじゃないか?)

「願ってない……」


(殺す……殺すんだ。あいつを……)

(自分の浅ましさを認めろよ。おまえは自分が助かるために数えきれないほどの人を殺して、最後には姉まで呪ったんだ)

 信は頭を掻きむしった。

(殺す……、あいつだけは絶対に……)

(……とんだ化け物だな。おまえのせいでみんな死んだんだ)

 信は体を支えることができず、その場にしゃがみ込んだ。


「……俺は…………」




「…………ぇ、ねぇ……ねぇってば!!」

 ふいに肩を叩かれ、信は弾かれたように顔を上げた。

 知らない女が心配そうに信を見下ろしていた。


「ねぇ、あんた……。大丈夫かい? 背中……着物が真っ赤だし……怪我してるんじゃないのかい? 医者……呼んでこようか?」

 信はゆっくりと辺りを見回す。

 道の真ん中でしゃがみ込んでいた信を、町の人たちが遠巻きに見つめていた。


 信は足に力を込めてなんとか立ち上がった。

「いや、いい……」

 信は重い体を引きずるように足を動かす。


「え、そんな体で……」

 女が慌てて、信に手を伸ばした。

 女の手が信の肩に触れた瞬間、信は女の手を振り払った。

 女の顔が驚きで見開かれていく。

 その顔がなぜか百合の顔に重なって見えた。

『信……』

 百合の絞り出すような声が聞こえた気がした。


「……ッ」

 信はきつく目を閉じると、逃げるように走り出した。


「ちょ……あんた……!」

 女の声が遠くに聞こえた。


 信はただひたすらに走った。

(殺す……殺してやる……!)

(何逃げてるんだよ。どこに逃げたって、おまえは呪われた化け物だ)

 声はずっと頭の中で響き続けている。


「俺は……何をしてるんだ……」

 足がもつれ、信は道に倒れ込んだ。

 信の横顔に冷たいものがポツリと当たった。

(雨……か……)

 雨は信の横顔を冷たく濡らしていく。

 雨足は強くなっているはずだったが、信の耳はしだいに何も聞こえなくなっていった。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 信は雨音の中、かすかに聞こえる人の声で、目を覚ました。


「こ、こっちです……。怪しい人がいて……」

「はい、血だらけで……」

「この先の……。怖いんで、早く連れてってください……」


(俺のこと……か……)

 信はゆっくりと体を起こした。

(まずいな……)

 信は重い体を引きずるように、再び走り出した。


(ここは……どこだ……)

 何も考えずに走っていたため、信は今自分がどこにいるのかまったくわからなかった。

(時間は……? あれからどれくらい経った……?)

 雨のせいで空が暗いのか、もうすでに夜なのかも、信にはわからなかった。


 走り続けると、大きな門が見えた。

(とりあえず、あの門の先に……)

 信は足を速め、門をくぐる。


「お、おい! もうすぐ閉める時間だぞ! 今からは……」

「え、あいつ血まみれじゃねぇか……? お、おい!」

 門の守衛のような男たちが後ろから追いかけてくるのがわかった。

 信は雨の中で、もつれる足をなんとか動かして、男たちを撒くと路地裏に身を隠す。

 細い道を進んでいると、信はまた意識が遠のいていくのを感じた。


(まずいな……)

 信は壁に寄りかかると、その場に座り込んだ。


(殺してやる……、許さない……殺してやる……)

(どこに行くんだ? おまえに逃げる場所なんてないぞ……)

 雨音の中でも、声は聞こえ続けていた。


「うる……さい……」

 信は耳を塞いで、きつく目を閉じた。



 ふいに、雨が止んだ。

 断続的に体に当たっていた冷たいものがなくなり、信はゆっくりと息を吐いた。

(雨……止んだのか……)

 しかし、信の耳には雨音が聞こえ続けていた。

(雨は……降っているのか……?)


 信はゆっくりと顔を上げる。

 気がつくと、信の隣には人が立っていた。

 信は目を見開く。


 そこには、傘を持って佇む美しい女がいた。

 女の背後では、無数の提灯に照らされた桜が妖しげに揺らめいている。

 幻想的なその光景は、この世のものとは思えないほど美しかった。


(俺は……死んだのか……?)


 信は女を見上げる。

 艶やかな黒髪に雪のように白い肌、大きく切れ長の漆黒の瞳、瞳を縁取る長いまつ毛、形の良い唇。

(天女……? 神の遣いは……こんなにも美しいのか……)


 天女の、形の良い唇がかすかに震えたのが見えた。

(どうしたんだ……?)

 天女を見つめていた信は、目を見開いた。


 天女の切れ長の瞳がわかずかに揺れると、その瞳から涙がこぼれていく。


(…………え?)


 涙は白い頬をつたい、その雫はゆっくりと地面に落ちた。

(どう……して……?)

 天女は真っすぐに信を見ていた。


(俺を見て……泣いているのか……?)

 その瞬間、信は胸の中で何かが溶け出していくのを感じた。


(俺のために……泣いてくれるのか……?)


 頭の中の声は、いつのまにか止んでいた。

(もう……いいか……)

 信は自分でも気づかないうちに微笑んでいた。

(もう……いいんだ……)


 こぼれ落ちる涙を見て、信は自分の中の澱んでどろどろになった醜い感情が、溶けていくのを感じた。


(もう…………。地獄でもどこでも連れていってくれ……)


 信はゆっくりと震える手を、天女に伸ばした。


(あなたが泣いてくれたから……もう……いいんだ……)



 信の手は温かいものに包まれた。

 そのしっかりとした感触に、信は一気に現実に引き戻される。

 天女の持っていた傘がゆっくりと地面に落ちた。


(人……なのか? ……俺は……一体何を……?)

 急いで振り払おうと信は手に力を込めたが、女は信の手を離さなかった。


 女がゆっくりと信の横に腰を下ろす。

 逃げようと信が身を引くのとほぼ同時に、信の頭が温かいものに包まれた。

(…………え?)

 気がつくと、信は女に抱きしめられていた。

 女の鼓動だけが信の耳に響く。

 温かかった。今までこれほどまでに人の温もりを感じたことは、信にはなかった。



「何があったのかは知らない……」

 女の声が聞こえた。

 その声は胸から直接頭の中に響いてくるようだった。

「だが……誰が何を言おうと…………私はおまえを許す」


 信は目を見開いた。


「おまえが自分を許せなくても、私はおまえを許す……。生きようとすることも、笑うことも、すべて許す。だから……」

 女は信を抱きしめる腕に力を込めた。



「死ぬな」



 信の口から言葉にならない声が漏れた。


「もう少し生きてみてくれ……」


 信の見開かれた目に、温かいものが溢れていく。

 自分の中にまだ温かいものあったことに、信は戸惑った。


「おまえが思っているよりは、この世は優しくて温かくて、美しいはずだから」


 信の目からこぼれた温かいものが地面を濡らしていく。

(俺が生きることを望んでくれるのか……? こんな俺を……)

 信は顔を上げることができなかった。



(もし……まだ生きることが許されるなら……)

 信は静かに目を閉じた。


(そのときは、この人のために生きよう……)

 聞こえるのは女の鼓動だけだった。

(この温かく美しい人が憂うことのない世界をつくる……。どうせ地獄に落ちるなら、この世の歪んだものはすべて俺が連れていく……。もしまだ生きられたら、そのときは……)


 信は心地よい温かさと、優しい音の中で、静かに意識を手放した。

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