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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第五章~黒百合~
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二年前

(失敗したな……)

 信は痛む左脇腹を庇うように、小屋の壁に寄りかかりながら腰を下ろした。

「……ッ」


「信……、どうかしたの……?」

 百合が何かに気づいたように口を開いた。

「……いや、なんでもない」

 信は痛みで呼吸が荒くなっているのを悟られないように、淡々と答えた。

 百合はわずかに口を開いたが苦しげな表情で少しだけ唇を噛むと、きつく目を閉じた。

「…………そう」

 百合の声はわずかに震えていた。

 

 信は痛みで吹き出す汗を手で拭いながら、百合に心配をかけないように息をひそめる。

(骨……折れてるかもな……)

 信は左脇腹に目を向ける。

 昨夜目的の相手を殺して逃げる途中、追手のひとりに棒で殴られたところだった。

(あんなのが避けられないなんて……)

 信はこみ上げる吐き気を抑えながら苦笑した。


 信は目の前の景色が歪んでいくのを見て、静かに目を閉じる。

(もう……怪我で調子が悪いのか、毒でおかしいのかもわからないな……)


 信は、毒をあまり口にしないように草や虫を食べて飢えをしのいでいたが、飢餓感から食事を見ると毒とわかっていても口にしてしまう日が増えていた。

 すべて吐いてしまう日もあれば、体がしばらく麻痺する日もあり、毒が引き起こす症状はさまざまだった。

(俺は……本当に……何をやっているんだろう……)

 信はかすかに目を開けた。

(人を殺したら地獄に落ちるって言われてきたけど……地獄も……きっとここよりはマシだろう……)

 信は目に入った汗を、そっと手で拭った。


(もう……死んでもいいかな……?)


 薄く開けた目にぼんやりとした光が見える。

(いや……ダメか……。神様は自殺も許してくれないんだっけ……? あれ、どうしてだ……? ああ、地獄に落ちるからか……。じゃあ、人殺しの俺は……もう関係ないんじゃないのか……? それなら……どうして……?)


 ぼんやりとした光の中に人影が見えた。


(ああ、そうか……。姉さんか……。姉さんがいるから……俺は死ねないんだ……)

 信の視界の中で、薄茶色の髪が揺れる。



(そう……()()()()()()()()()……)



 その言葉が浮かんだ瞬間、信は頭から水を掛けられたように血の気が引いていくのを感じた。


(……え?)


 信のぼんやりとしていた思考が、一気にはっきりとしていく。


(俺は今……何を考えた……?)

 信の瞳が驚愕で見開かれた。


 歪んでいた視界が少しずつ元に戻り、百合が信の方を向いていたことがわかった。


(俺は……一体何を考えているんだ……! 俺がここにいるのは……姉さんを守るためだったはずなのに……!)

 信の呼吸は、気づかないうちにひどく荒いものになっていた。




「ねぇ、信……」

 ふいに、静かな声が響いた。


 信は慌てて呼吸を整える。

「な、何……? 姉さん」


「私のことはいいから」

 百合の声はとても穏やかだった。

「あなただけでも逃げて」


 信は一瞬、百合が何を言っているのかわからなかった。

(どうしてそんなことを……?)

「な、何言ってるの……? 姉さん……。逃げるって……どうし……」

「あなただけなら逃げられるでしょう?」

 信の言葉を遮るように、百合は口を開いた。

「私のために危ないことはもうしないで」

 百合はそう言うとゆっくりと目を開いた。焦点の合わない瞳が、信に向けられる。


 言葉が出なかった。

 信はただ見開いた瞳で百合を見つめていた。


「私のことは……本当に……もういいのよ……」

 百合の顔がゆっくりと歪んでいく。

 何も映していない瞳に、涙が溢れていくのが見えた。


 百合の白い腕が信を探すように動く。

「ねぇ……、信……」


 信は思わず立ち上がると、後ずさって壁にぶつかった。

 鼓動が耳のすぐ横で鳴っているようにうるさく響く。

(やめろ……やめてくれ……)

 信は両手で耳を塞いだ。

(気づかれた……? ど、どこまで……? 毒のこと? 人を殺していること?)


 信はうまく息ができなかった。


(俺が……姉さんの死を願ったことも……?)


「信……?」

 百合の声が聞こえた。


(ダメだ……! こんなの気づかれちゃいけない……!)

「な、なんのこと? ……何を言ってるか……よくわからない……」

 信はそれだけ口にすると、壁にぶつかりながら小屋の戸に向かって走った。


「……信!」


 百合の言葉を背中に受けながら、信は小屋の外に飛び出した。

 脇腹がズキリと痛み、信はその場にうずくまる。

 信はこみ上げるものを抑えきれず、うずくまったまま溜まっていたものをすべて吐いた。


 空っぽになっても気持ち悪さは消えなかった。

「俺は……、俺は……一体……」

 信は頭を掻きむしった。

(本当に死ぬべきなのは…………)

 遠のいていく意識の中で、信は自分がこの世から消えてなくなることを切に願った。

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