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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第四章~桔梗~
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降りしきる雪の中で

 叡正は歌舞伎小屋の客席にいた。

 化粧を落として雪之丞の部屋から出た叡正は、歌舞伎の関係者だと思われる男に捕まり、客席で観ていくようにと後ろの方の客席に案内されたのだった。

(絶対、弟かなんかだと思われてるな……)

 叡正はひとり苦笑する。


「おい、あんた歌舞伎は初めてか?」

 唐突に、叡正の隣に座っていた老人が口を開いた。

 老人は真っすぐに叡正を見ている。

「えっと……、そうです……」

「だろうな。弁当も持ってきてなさそうだし、初心者だろ。ほら、握り飯だ。分けてやる」

 老人は竹の皮に包まれた握り飯を叡正に渡した。

「ああ……、ありがとうございます……」

 叡正は戸惑いながら、握り飯を受け取る。


「今日の演目……雪之丞が立役やるにはまだ早ぇと思うんだよ。若すぎるし……。しかも最近不調みたいだしな……」

 老人はしみじみと言った。

「えっと……、今日の演目って何ですか……?」

 叡正がおずおずと老人に尋ねる。


 老人の目がカッと見開かれた。

「おまえ、そんなことも知らねぇで来たのか!」

「す、すみません……」

「まぁ、いい……。初心者だもんな」

 老人は咳払いをすると口を開いた。

「今日の演目は、赤穂浪士の出来事を基にした時代物だ。あの大石内蔵助の仇討ちの話が基になってるんだ。自決に追い込まれた主君の仇を打つって流れは歌舞伎でも一緒だな」

「ああ、赤穂浪士か……」

 歌舞伎に関しては何もわからない叡正も、武家の史実はひと通り学んでいた。


「まぁ、歌舞伎だからいろいろ脚色されてるがな。仇討ちに巻き込まれた人たちの人生が狂っていく様も見どころになってる」

 老人はなぜか自慢げに鼻を鳴らした。

「そうなんですね……」

(人生が狂っていく様か……)


 そのとき、太鼓の音が鳴り響いた。


「お、始まるぞ」

 老人が呟くと同時に舞台が始まった。



 役者が舞台袖から登場する。

「三ツ井屋!!」

 突然、隣の老人が叫んだ。

「!?」

 叡正は目を丸くして、老人を見た。

 続けてほかの場所からも掛け声が上がる。

「三ツ井屋!」

「三ツ井屋」

「待ってました!」


(あ、これが普通なのか……)


 叡正は気を取り直して舞台を見た。

 舞台には煌びやかな衣装を身に纏った色気漂う女形がいる。

(これがみんな男なんだから、信じられないよな……)

 叡正は感心しながら舞台を見ていた。


 しばらく舞台に見入っていると、隣の老人が小さく呟く。

「ほら、そろそろ雪之丞が出てくるぞ」


 叡正は舞台に目を向ける。

 ひとりの役者が舞台袖から現れた。

 その瞬間、歌舞伎を知らない叡正でも舞台の雰囲気が変わったのがわかった。

 特に光が当てられているわけでもないのに、その役者の周りだけ明るく輝いているようだった。


「……み、三ツ井屋……」

 老人が先ほどとは打って変わった戸惑いがちな声を掛ける。

 叡正は不思議そうに老人を見た。


 老人は呆然とその役者を見ている。

「雪之丞……こんな雰囲気だったか……?」

 老人は小さく呟いた。

 叡正は舞台に視線を向ける。


 舞台では、雪之丞が切腹した男に駆け寄っていた。

 男が雪之丞に自分の腹を切った小刀を託す。


 叡正は雪之丞に目を向けると、思わず身震いした。

 舞台から遠く離れているにも関わらず、雪之丞の悲しみと憤りが見えるようで胸が詰まる。

 すべての観客が固唾を飲んで雪之丞を見つめているのが叡正にもわかった。

(すげぇ……)

 叡正は雪之丞から目を離すことができなかった。



 幕間に入ると、叡正は隣の老人に声を掛けた。

「雪之丞って本当にすごいですね……。ここまでだとは思いませんでした」

 老人は戸惑いながら叡正を見る。

「いやぁ……、確かに雪之丞はもともと上手いが、今日は……何かに取り憑かれてるみてぇだ……。なんか鬼気迫るものがあるよな……」

「そんなにいつもと違うんですか?」

 叡正は首を傾げる。

「違うなんてもんじゃねぇ……。でも、役者が花開く瞬間っていうのはこういうものなのかもしれねぇなぁ……」

(そう……なのか……。今日何があったんだ……)

 叡正は少し考えてから、首を横に振った。

(今は芝居を楽しもう)

 叡正は気持ちを切り替えると、握り飯に口をつけた。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




「雪之丞……おまえ……」

 辰五郎は舞台袖で雪之丞に声を掛けた。

 最後の討ち入りの場面に向けて着替えていた雪之丞は、辰五郎を振り返る。

「どうした?」


「おまえ……死ぬ気なのか?」

 辰五郎の言葉に、雪之丞は目を丸くした。


「おまえの今日の芝居……凄すぎて……なんか人生最後の芝居って感じで……怖いんだよ……」

 辰五郎は苦しげに言った。


(そんなふうに見えたのか……)

 雪之丞は思わず苦笑する。

「違う違う」

 雪之丞は辰五郎を安心させるため、笑顔で辰五郎に近づくと背中をポンポンと叩いた。

「見せたいやつがいるだけだ」


「見せたいやつ?」

 辰五郎が眉をひそめる。

「そうそう。見たがってたから……。見せてやりたいんだよ、最高の舞台ってやつを」

 雪之丞は辰五郎を真っすぐに見て言った。


 辰五郎は目を見開いた後、静かに目を閉じた。

「そうか……」


「ああ。じゃあ、そろそろ出番だから行くわ」

 雪之丞はそう言うと片手を上げて、舞台に向かった。



(ここ最近ちゃんとした舞台見せてやれなくて悪かったな、山吹……。俺が最高の舞台を見せてやる)


 雪之丞は顔を上げて舞台に出る。


 そこには一面の雪景色が広がっていた。

 綿でできた雪を一歩ずつ踏みしめる。

 頭上から雪に見立てた紙吹雪が舞い落ち、視界を白く染め上げていく。


(ああ、そうだ……。来年も再来年も一緒に初雪を見るって約束したんだったな……)


 舞台は仇の待つ屋敷の前。

 仇討ちのための役者が舞台に出揃っていた。


(なぁ、見てるか? 山吹……)


 仇討ちという目的を同じくする者たちが、雪之丞の討ち入りの合図を待っている。

 歌舞伎小屋は水を打ったように静まり返っていた。


(見ててくれ)


 紙吹雪が舞う中、雪之丞は顔を上げる。

 雪之丞の合図とともに、皆が屋敷になだれ込んだ。


 役者たちの立ち回りに、観客が息を飲む。


 大立ち回りの末、役者たちは小屋に隠れていた宿敵を見つけ出した。

 雪之丞が形見の小刀で宿敵の首を取る。

 降りしきる雪の中、雪之丞が宿敵の首を掲げた。


 雪之丞は顔を上げる。

 舞い落ちる紙吹雪が、雪之丞の目には雪にも桜にも見えた。

(ちゃんと見えたか? これから何度も何度も、最高の舞台を見せてやる。だから……おまえが飽きるまで、そばで見てればいい……)


 観衆は皆、雪之丞から目を離すことができずにいた。

 雪の中に佇む雪之丞は、この世のものとは思えないほどに美しかった。

 雪之丞の姿は、仇討ちを成し遂げた力強さだけでなく仇討ちの虚しさ、人の儚さも感じさせるものだった。

 舞い落ちる雪がそれをより強く印象づける。


「三ツ井屋!!」

「三ツ井屋!

「三ツ井屋!!!」

「日本一!!」


 観客から声が掛かる。


(俺が死ぬまで、俺はおまえが惚れ続けるような役者でいる。だから、来年も再来年もずっと一緒だ……)


 雪之丞たちは討ち取った首を持って主君の墓に向かい、舞台は静かに幕を閉じた。

 歌舞伎小屋に割れんばかりの拍手が響き渡る。


「三ツ井屋!!」

「三ツ井屋!

「三ツ井屋!!!」

「日本一!!」


 この日、幕が下りて役者が舞台から去っても、拍手はいつまでも鳴り止むことはなかった。

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