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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第四章~桔梗~
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六ヶ月前③

(ひどい雨だな……)

 雪之丞は扇屋の軒下に入ると傘を閉じた。

 着物の裾と傘からはみ出していた肩は雨でぐっしょりと濡れている。

(風も強いから、傘の意味はあまりなかったな……)

 雪之丞は、男衆に声をかけて山吹を呼ぶと、見世の入口で濡れた着物を手ぬぐいで拭いた。

(それにしても今日は冷えるな……)

 ここ数日で、江戸は急激に冷え込んでいた。

(早く酒でも飲んで温まろう……)

 雪之丞がそんなことを考えていると、座敷の準備ができたと男衆が呼びに来た。


 雪之丞が階段を上って座敷に入ると、今日はすぐに山吹がやってきた。

「雪之丞様」

 山吹は嬉しそうに雪之丞のもとに駆け寄ると、隣に腰を下ろした。

「あ、雪之丞様……お召し物が……」

 雪之丞の肩が濡れているのに気づいた山吹が、おずおずと肩に手を伸ばす。


「大丈夫だ。それほど濡れては……」

 雪之丞の言葉は、そこで不自然に途切れた。

 山吹の手首には赤い痕がくっきりとついていた。

「おまえ……、その痕……」

 雪之丞の言葉に、山吹はハッとしたように手首を隠す。

「あ、これはなんでもないんです……」

 山吹はごまかすように微笑んだ。

「なんでもないって……、おまえ……」

 山吹の手首に残っていたのは、明らかに誰かに掴まれたときにできる手の痕だった。

 以前雪之丞が掴んだときも同じような痕が残っていたのを思い出し、雪之丞は目を伏せた。


「あ、あの……、雪之丞様……?」

 山吹の声がかすかに震える。

(……俺が怒っていると思ってるのか……?)

 雪之丞は悲しさと苦しさの入り混じったよくわからない感情で胸が詰まった。

「……手は痛くないのか……?」

 雪之丞は絞り出すように、なんとかそれだけ口にした。

「あ、はい……。まったく痛みはありません」

 山吹は少しだけホッとしたような声で言った。

「そうか……」

 雪之丞はそう言うと、そっと山吹の手をとった。

「雪之丞様……?」

 山吹は不安げな表情で雪之丞を見つめる。


(この痕をつけた男と、俺は大差ない……)

 雪之丞はひとり苦笑すると、壊れ物に触れるようにそっと山吹を抱きしめた。

 山吹が小さく息を飲むのがわかった。

「山吹……」

 雪之丞は山吹の耳元で囁く。

「今日は何もしないから……ただこうしてそばにいてくれないか?」

 雪之丞は山吹の肩に顔をうずめた。

「雪之丞様……」

 山吹の息が雪之丞の首筋にかかる。

 情けなさで雪之丞は顔を上げることができなかった。


 山吹の二本の腕がゆっくりと雪之丞の背中に回る。

「はい……! そばに……ずっとそばにいます」

 山吹は力強く雪之丞を抱きしめた。

 雪之丞は目を見開く。

 胸にじんわりと温かいものが広がった。

「おまえ……、あったかいな……」

 雪之丞は思わず小さく呟いた。

「ふふ……、刺繍以外にも取り柄があって良かったです。雪之丞様がよく眠れるように、しっかり温めますから」

 山吹はそう言うと、両腕に一層力を込める。

 雪之丞はそっと目を閉じた。

「ああ、あったかいよ。……ありがとな」

 雪之丞は小さく呟いた。

 うるさいほどに響いていた雨音はいつしか聞こえなくなっていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 雪之丞が目を覚ますと、隣で寝ていたはずの山吹がいなくなっていた。

 雪之丞は慌てて体を起す。

「あ、起こしてしまいましたか?」

 後ろから聞こえた山吹の声に、雪之丞は振り返った。

 山吹は長襦袢姿で、窓辺に腰かけていた。

 まだ朝というわけではなさそうだったが、外はなぜか少し明るい。

 雨音はしておらず、辺りはしんと静まり返っていた。

「見てください。雪です」

 山吹は嬉しそうに微笑んだ。

 雪之丞は掛け布団を持って立ち上がると、ゆっくりと山吹に近づく。

 窓の外には雪が舞っていた。

 いつから雪になっていたのか、地面には薄っすらと雪が積もっている。

 雪之丞は掛け布団で山吹を包んだ。

「あ……」

 山吹は掛け布団に包まると微笑んだ。

「ありがとうございます……」

「どうりで冷えるわけだな……」

 雪之丞はそう呟くと、掛け布団ごしに山吹を後ろから抱きしめた。


「雪之丞様と……初雪が見られて嬉しいです……」

 山吹が窓の外を見たまま呟いた。

 雪之丞は山吹の顔をのぞき込む。

「雪なんて、これからいくらでも見られるだろう?」

 雪之丞は軽く笑った。

「初雪は今日だけです」

 山吹は雪之丞を振り返って嬉しそうに言った。

 雪之丞は雪を見ながら微笑む。

「そんなことねぇよ。来年だって、再来年だって初雪の日はあるだろう。これから何度だって一緒に見られるさ」


 山吹は目を見開いた。

 その瞳にゆっくりと涙が溜まっていく。

「お、おい、どうした……!?」

 雪之丞が慌てて言った。


 山吹は目を細める。

 その瞳からひと筋の涙がこぼれて布団を濡らした。

「いえ……、少し……幸せすぎて……」

 山吹は窓の外に視線を移した。

「このまま時が止まればいいのに……」

 山吹はそっと呟いた。


 雪之丞も窓の外に目を向ける。

 雪は二人の前で静かに舞い、緩やかに落ちていく。

「そうだな……」

(このままずっと一緒に……)

 雪之丞は祈るように、そっと目を閉じた。

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