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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第四章~桔梗~
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六ヶ月前①

 歌舞伎の稽古を終えた雪之丞は、壁際に座り手ぬぐいで汗を拭いていた。

 集まっていた役者たちは、続々と稽古場から出ていく。

(俺もそろそろ帰るか……)

 雪之丞が立ち上がろうとしたとき、同じように汗を拭いていた男と目が合った。

(ああ、辰五郎か……。まだ帰ってなかったんだな……)

 辰五郎は雪之丞に微笑むと、ゆっくり近づき隣に腰を下ろした。

「最近、調子良さそうだなぁ」

 雪之丞は辰五郎を横目で見る。


「別に普通だろ」

 雪之丞は興味なさそうに言った。

 辰五郎は軽く笑う。

「おまえは相変わらずだなぁ。まぁ、自覚はないのかもしれないけどさ……。最近のおまえ、芸に艶があるよ。男形なのに胸焼けしそうなくらい色っぽい」

 辰五郎の言葉に、雪之丞が顔をしかめる。

「なんだよ……喧嘩でも売りに来たのか?」

「そんなわけねぇだろ?」

 辰五郎は楽しそうに笑った。

「褒めてんだよ。これも、おまえが夢中になってるっていう遊女のおかげかな?」


 雪之丞は辰五郎を軽く睨む。

「おまえ……、それが言いたかっただけだろ」

「ふふ、半分正解。でも、半分は本当に褒めてるんだよ」

 辰五郎はクスクス笑いながら、雪之丞を見た。

(絶対馬鹿にしてるだろ……)

 雪之丞は舌打ちをした。


「いやいや、本当だから。実際、おまえのとこの旦那、一線を退いて、おまえのこと檀十郎に推すつもりみたいだぞ」

 辰五郎が真面目な顔で言った。

 雪之丞は目を見開く。

「おいおい、嘘だろ? あの人が引退なんて早すぎるし、俺だって襲名するにはまだ実力が足りねぇだろ」

 辰五郎は雪之丞を見る。

「まぁ、檀十郎さんが引退するのは早いと思うけど、おまえは人気、実力ともにあるから、襲名自体はたぶん問題ねぇよ。最近檀十郎さんが贔屓筋に根回ししてるって噂だ」

「嘘だろ……?」

 雪之丞は呆然とした顔で呟いた。


「いいじゃねぇか。おまえだって目指す場所はそこだっただろ?」

 辰五郎が不思議そうに言った。

「いや、そうだけど……。早すぎるだろ……。旦那の名を継ぐのは俺の最終の目標なんだから……」

「その旦那が認めてるんだからいいじゃねぇか。ああ……うちの旦那も早く俺のこと推してくれねぇかな……」

「いや、おまえは単純に実力が足りねぇだろ」

 雪之丞の淡々とした言葉に、辰五郎がムッとした表情を浮かべる。

「おまえ、本当に可愛くないねぇ……。はぁ……、おまえは幸せいっぱいで羨ましいよ……。まぁ、いいんじゃねぇの? 檀十郎を襲名して、ついでに遊女ももう身請けしちゃったら?」

「な!?」

 雪之丞は目を見開く。

 辰五郎は不思議そうな顔で雪之丞を見た。

「……何? 『な!?』って。遊女のこと? え? おまえ入れあげてるんだろ? いずれ身請けするつもりだったんじゃねぇの? 小見世の遊女なんだろ? 身請けしたってたいした額じゃねぇだろ?」

 雪之丞は目を泳がせる。

「い、いや……、そういうのは本人の意思もあるだろうし……」

 最後は消え入るような声で雪之丞が呟く。

「は? え、何……? もしかして惚れてるの、おまえだけなの? え! 何それ! ……わ、笑えるんだけど……!」

 辰五郎は言い終える前に吹き出した。

「え! 嘘だろ!? 江戸一の色男とか言われてるやつが!? やばい……笑いが止まらねぇ……!」

 辰五郎は腹を抱えて笑い出した。

 雪之丞は持っていた手ぬぐいを辰五郎に投げつける。

「うるせぇよ……」

 雪之丞は恥ずかしさで、顔が熱くなっていくを感じた。


「ふふ……、わ、悪い悪い。ふふ……、初めておまえのこと可愛いと思ったよ……」

 男はこみ上げる笑いを抑えるように、片手で口元を覆った。

「まぁ、身請けのこと言ってみりゃいいじゃねぇか、その遊女に。反応でわかるだろ? 希望があるかどうか」

「そう……だろうけど……」

 雪之丞は目を伏せた。

 身請けの話をしたときの山吹の反応は、雪之丞には簡単に想像ができた。

 こぼれ落ちそうなほど目を見開いた後、山吹はきっと困ったように笑うのだ。

 そしてこう言う。

「雪之丞様にはもっとふさわしい人がいるはずです」と。

 雪之丞は、その光景を想像するだけで胸が潰れそうだった。


「可愛い……」

 辰五郎は雪之丞の顔をのぞき込むように見つめていた。

「は?」

 雪之丞は眉をひそめる。

「おまえ、可愛かったんだな……。俺、惚れそうだよ……」

 辰五郎はわざとらしく目を潤ませる。


 雪之丞は片手で顔を覆った。

「頼むから、もう俺の前から消えてくれ……」

「まぁまぁ、これからは俺のことを兄貴と呼べ。いろいろ助言してやるから」

 辰五郎はニヤニヤと笑う。

 雪之丞は辰五郎をジトっとした目で見た後、深いため息をついた。

「アホらしい……。俺……帰るわ……」

 雪之丞はよろよろと立ち上がると、戸に向かって足を進めた。


「また今度じっくり話そうな! 弟よ!」

 辰五郎の楽しそうな声が雪之丞の耳に響く。

「うるせぇ……」

 雪之丞は振り返らず、小声で呟いた。

 戸に手をかけると、雪之丞は目を伏せた。

「身請け……か……」

 そう呟くと、雪之丞の脳裏に困ったように微笑む山吹の顔がチラつく。

 雪之丞はまた深いため息をつくと、戸を開けて稽古場を後にした。

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