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【コミカライズ・九章完結】鏡花の桜 〜花の詩〜  作者: 京崎 真琴
第四章~桔梗~
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九ヶ月前

 扇屋の座敷で、雪之丞は山吹を待っていた。

 山吹の手首を掴んで詰め寄った日から、ひと月ほどが経っていた。

 雪之丞は座敷の中を落ち着きなく歩き回る。


 山吹に会ったときにどうすればいいかわからず、雪之丞はずっと扇屋を訪れることができずにいた。

(山吹は来てくれるだろうか……)

 ひと月ぶりに扇屋に来て座敷には上がったが、遊郭では遊女にフラれることは珍しくない。

 最初の頃の山吹であればフラれる心配はなかったが、今の山吹は張見世にいることがほとんどないほどの売れっ妓になっていた。

 今なら山吹の意思で客を拒むこともできるだろうと、雪之丞は考えていた。

 雪之丞はゆっくりと息を吐く。

(来てくれることを祈るしかないか……)

 雪之丞は暗い気持ちで足元の畳を見つめた。


「失礼いたします」

 襖の向こうから声が聞こえた。

 ゆっくりと襖が開き、座敷に入ってきた山吹が頭を下げる。

「……山吹……」

 雪之丞は目頭が熱くなるのを感じた。

(来てくれた……!)

 雪之丞はしばらく山吹を見ていたが、山吹は一向に頭を上げなかった。

「山吹……?」

 山吹の肩は小刻みに震えていた。

 雪之丞は目を見開く。

(俺を……怖がっているのか……?)

 全身が押しつぶされたような苦しさを覚えた。

(あんなことをしたんだ……、当然か……)

 雪之丞は重い足をひきずるように山吹に近づくとしゃがみ込んだ。

「山吹……、本当に……悪かった……」

 雪之丞が絞り出すようにそう言うと、山吹はゆっくりと顔を上げた。

 雪之丞は言葉を失う。

 山吹は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。


「もう……来てくださらないかと思っていました……」

 山吹は着物の袖で涙を拭いながら口を開いた。

 思いがけない言葉に、雪之丞は目を見開く。


「俺を……待っていてくれたのか……?」

「私は……待つことしかできませんから……」

 山吹は話しながら、また目に涙を溜めていく。


「本当に申し訳ございませんでした! 雪之丞様!」

 山吹は勢いよく頭を下げた。

「お、おい……」

「私は売れっ妓などではありません! 雪之丞様がときどき来てくださるので、どんな遊女かとほかのお客に呼ばれるだけです! 調子に乗っていたつもりはないのですが……、雪之丞様にヘタな三味線を聴いてくださいなどと言って……やはりどこか調子に乗っていたのかもしれません……。雪之丞様が怒って当然です!」


 雪之丞は口を開けたまま呆然と山吹を見ていた。

 言葉が出なかった。

(山吹は……俺が怒ったと思っているのか……。しかも、三味線を聴かされたから……? 俺は一体……どれだけろくでもない人間だと思われているんだ……)


「調子に乗って……雪之丞様に褒めてもらいたいなどとおこがましいことを考えて……」

 雪之丞は山吹を見つめた。

「私ごときがどれだけ練習してもヘタに決まっているのに……。雪之丞様に教えていただいたことが嬉しくて、調子に乗って……」

「山吹……」

「少しくらい何かできるようになって……雪之丞様に吊り合う遊女になりたくて……」

(吊り合う……遊女……?)

 雪之丞は苦笑する。


(笑えるほど……何も伝わっていないんだな……。でも……)

「俺に……会いたいと思ってくれていたのか……?」

 雪之丞の言葉に、山吹が弾かれたように顔を上げる。

 山吹は化粧が崩れて、ひどい顔になっていた。

「も、申し訳ございません! 会いたいなどとおこがましいことを思ってしまって……」


 山吹の言葉が終わるより早く、雪之丞は山吹を抱きしめた。

 山吹の体が小さく震える。

 雪之丞は、山吹の背中に回した腕の力を強めた。

「いや……、嬉しいよ、山吹」

(こいつは……俺と同じ気持ちではないかもしれないが……。それでも、会いたいと思ってもらえたことが……)

「俺も……会いたかった」

 雪之丞は、山吹の耳元で絞り出すように呟いた。

 山吹の体がビクッと震える。

 雪之丞の腕の中で、体の震えはしだいに大きくなっていく。


「山吹?」

 雪之丞が体を離すと、山吹は両目から涙をこぼしていた。

「雪之丞様……」

 山吹はそれだけ口にすると、嗚咽をもらして泣き始めた。

 雪之丞は目を丸くする。

「お、おい……」

「す、すみ……ま……せん。……う、嬉し……くて」

 山吹は顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。

 化粧はもうすでにほとんど残っていない。

 雪之丞は思わず微笑んだ。

(ひどい顔だな……)

 雪之丞は山吹をそっと抱き寄せると、優しく頭をなでた。

(この顔を見て、可愛いと思うなんて……。俺は本当にどうかしちまったんだな……)

 雪之丞は苦笑する。

 子どものように泣く山吹を、雪之丞はどうしようもないほど愛おしいと思った。

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