第23話
その翌日は最悪だった。
ただでさえ来賓の式典があって眠りに付いたのが遅かったうえに、やっと寝たと思ったら婚約式のために昼過ぎには起こされて、そのまま見張りと見回りをして夜を明かし、いつもどおりトレーニングもすべてやる。
しかも生真面目なモリトールは式典のために前日のトレーニングを軽くしたからと、補充するためにいつも以上のトレーニング内容を課してきた。これも仕事のうちだからと、真面目にこなしてしまう自分も大概、日本人気質なのだろうけれど。
ファレロはへとへとになってシャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだ。
「おい、なにしてる。洗濯だぞ」
「あ、そっか……」
軍人は、本当に体力が底なしで化け物だ。
もう動けないと思うのに、やはりこれも仕事だからとカゴを持つ。ずるずると引き摺るようにして階段を下り、外にある洗濯スペースに向かう。魔法を使うのは相変わらずモリトールの仕事なので、荷物の運搬はもっぱらファレロの役割だった。
「洗濯、2日に1回とかにしません?」
「俺達の隊服は白だ。早く洗わないと汚れが目立つ。軍人たるもの、いつでも清廉潔白でなければならない」
「ああ、はい」
論じる気力もない。電気のない桶の中でぐるぐると隊服達が泡に塗れて踊り狂い、ぶんぶんと水を吹き飛ばして脱水されていく。
見守っている間に億劫になって、その場に座り込んだ。
「人が働いてるときに休むのは失礼だぞ」
「あ、すみません」
立ち上がる。
「別に立てとは言っていない。一言言えという意味だ。申し訳ありませんが情けなくも私には兎ほども体力がなく、今ここで座らないと倒れてしまいそうなので休んでもいいでしょうか、とか」
「なんか、モリトールさん吹っ切れました?」
「どういう意味だ」
「性格の悪さを隠さなくなったというか」
「今後一切、隊服を着るの手伝わない」
「えっ!」
「ランニングも手を引いてやらない」
「そんなぁ……」
「まあ、でもまた馬鹿みたいに泣かれても困るからな」
「え、いつ泣きましたっけ?」
「騎馬隊員に敬礼されたときだ。君が入隊して2日目か、3日目の朝」
思い出した。体力づくりというものをほとんどしてこなかったせいで疲労困憊していたのに、唯一の心の拠り所と思っていたルイスに他人行儀にされて心がぷっつんと千切れてしまったあの瞬間が蘇り、ふっ、と笑う。
「確かに、あれは困っちゃいますね」
「本当にな」
服を浮かせ、温風を当てる。ぱたぱたと揺れている服が渇いていくのは、じっと見ていると色が変わるので面白い。
「仲が良かったのか」
ふと、モリトールが問うてくる。ルイスのことだろうと思った。
「そうですね。子どもの頃から、ずっと。モリトールさんが魔法隊に入隊したときくらいから、一緒にいましたからねえ。年齢も近いから、色々と任される仕事も同じで、助け合ってきて、疲れたときにはふたりでブランコになるのがお決まりなんです」
「ブランコ?」
「そうです。私が座って、ルイスが立って漕ぐ。それで愚痴を言い合うんですよ。『今日のお母さんは機嫌が悪かったね』『お父さんと喧嘩したらしいよ』『八つ当たりってヤダね』『そのせいで弟達も機嫌よくなかったね』みたいな。同年代だから言える感じで、とても好きな時間でした。首都みたいに明るくないから、自然のまま、のんびりで」
もう戻れないあの日。
夜通し、枕を隣り合わせてくすくすと笑い合ったあの夏。寒くて毛布を奪い合ったあの冬。次の日の朝の時間なんて気にせずに遊び回った、あの夕暮れ。
もう戻らない、あの日。
もう戻らない、ルイス。
あの敬礼に返礼した瞬間から、ふたりの間に決定的な溝ができたことをファレロは感じていた。いつかふたりで帰省することができても、ファレロもルイスも、互いにあの敬礼を忘れないのだろう。そしていつまでも気まずさを胸の奥に抱えて、心から笑い合えない。埋まることのない溝。
あんな、小さなことで笑っていたのに。
ミルクを飲む弟の口まわりにミルクの髭が出来ていたことでさえ、あんなに笑っていたのに。
あの瞬間、すべてが変わってしまった。
兄と妹から、軍人になってしまったのだ。
ぽとり、と頬を流れた涙を手で拭った。泣く資格など、ありはしなかった。自分が進んで入隊したのだから、変化に泣くなど傲慢すぎる。
怖くて会いにいけないのだ。
そんな暇などないというのはきっと言い訳で、あの屈託なく優しく接してくれたルイスが遠くに感じるのが怖くて騎馬隊の寮にいけない。
なんて臆病なのか。
どうして自分は、いつまでも兄妹のようにいられると信じて疑わなかったのか。
自分が間違っていた。
二度と会えないというのは、正しかった。
もう二度と、あのときと同じ心では会えない。
それが自分が選んだ道だった。まぎれもなく、自分が歩き出したのだ。誰のせいでもない。自分のせい。
ファレロは気を取り直して、乾き終えた洗濯を大雑把に畳み、籠に入れる。籠を持ち上げると、目の前に塞がるようにモリトールがいた。
なんだ、と思っていると、そっとモリトールの左手が伸びてきて、頬を親指で撫でた。
薬指の指輪が、きらりと光るのが見える。
「なんだ、もう泣くのはやめたのか」
見られていたのか。強がって、わざと茶化す。
「泣いてませんー」
「またあの壊れたホルンみたいに泣くのかと思ったのに」
「いやいや、そこまでではないですよ。……え、そんなにでした?」
「部屋がコンサートホールみたいだった」
「えー。そんなにかなー」
「壁が揺れた」
「失礼な。それより、モリトールさんの家族はどんな感じなんです? お兄さんとか、お姉さんとか」
さっ、とモリトールが踵を返した。あまり話題にしたくなかったのだろうかと黙って付いて行くが、結局、モリトールは話してくれた。
「兄がふたりいる」
「やっぱり軍人ですか?」
「いや。医者だ。医療一家だから」
「頭よさそー」
「頭がいいだけの堅物だ。あんなもの、家族じゃない」
そう言った背中は、どこか寂しそうだった。
なんて言っていいかわからず、うーん、と空を仰ぐ。
「ファレロさん」
そこへ声を掛けてきたのは、なんとエドゥアール皇太子だ。護衛を1、2人引き連れただけで軍施設を歩き回っているとは俄かには信じられず、二度見してしまう。
ファレロは慌てて敬礼した。遅れてモリトールも気付き、同じように並んで敬礼を執るのが見えた。エドゥアールが返礼をして、姿勢を正す。
「おはようございます、ファレロさん。と、モリトールさん」
「おはようございます」
取ってつけたようにモリトールに挨拶するその気位がいけ好かない。
エドゥアールはファレロの手にある籠をちらりと見てから、モリトールに視線を向けた。
「女性に荷物を持たせるのが、この国では当たり前なのですか?」
なにこの嫌味な言い方。腹立つー。
ファレロはにっこりと笑い、モリトールの代わりに答えた。
「私のほうが後輩ですから、当然のことをしているまでです」
「婚約者なのに?」
「公私混同はしない主義なんです。私も、モリトールさんも」
「ふーん」
意味深な微笑み。
(あ、絶対に性格悪いわ、この人)
「部屋までお持ちしましょう」
と、籠を奪い取ってくれようとするのを身を翻して躱す。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます。魔法隊以外の方の寮への入室は禁じられていますから」
「ああ、そうですよね。それにしても、顔色が悪い。訓練が厳しすぎるのでは?」
「早く戦力になりたいですから」
「我がマネ国であれば、優雅に暮らせますよ。こんな劣悪な環境ではありません。男女で同じ籠に洗濯物を入れるだなんて」
いかにも不快そうに苦虫を潰したような顔をするのが、またなんとも気に食わない。
(こっちは早く寝たいんだ!)
「同じ部屋で生活していますから、同じ籠に服を入れることなんて、なんにも気になりませんよ」
おーほほほほ、と言わなかっただけ褒めてもらいたい。
エドゥアールの額に青筋が浮かんだ。やはり、ファレロに来てもらいたいのではなく、魔女が欲しいだけなのだとわかる。このやり取りだけでファレロに苛ついているのは一目瞭然だ。
「同じ、部屋ですか?」
「そうです。婚約していますから」
婚約、を強調して言うと、また青筋がぴくりと痙攣する。そうともそうとも、そうやって事実を受け入れて諦めてくれたまえ。
しかしエドゥアールは話題を変えて食い下がってきた。
「それにしても、なんと嘆かわしい。先日の少年救出事件も、ファレロさんが最前線で戦ったのだと、もっぱらの噂です。女性にそんなことをさせるだなんて」
その言葉にピクリと反応したのは、エドゥアールではなくファレロだった。ぎゅっと籠を持ち直して、問い返す。
「……女性に、とは?」
エドゥアールは大仰に顔を左右に振ってみせた。
「命を賭けて戦うのは男の仕事です。女性にその片棒を担がせるだなんて。我がマネ国であれば、ファレロさんには長閑な暮らしをお約束できますよ。こんな安っぽいシャツでなくて、一級品のドレスを──」
「女が命を賭けちゃ駄目なんですか」
エドゥアールの言葉を遮ると、エドゥアールは「えっ」と小さく戸惑いを見せた。ファレロは反論の隙も与えずに捲し立てた。
「モリトールさんが私のために命を賭けてくれるとして、どうして私がモリトールさんのために命を賭けるのは駄目なのでしょうか。女が戦ったら変ですか。女が軍人だったら変ですか。哀れですか。可哀想ですか。そんなに不幸に見えますか」
エドゥアールはぐっと押し黙った。ファレロは見下してくるその瞳から目を逸らさなかった。
その奥にファレロが抱いていた不満が見えた。
女が生きづらい世界。
子どもを産むことだけを求められるオモチャのように扱われる世界。
腕力と体力だけがすべての世界。
日本だけじゃなく、女性を扱うすべてのやりかたをその瞳の奥に見た。
だから、そのすべてのやりかたに宣戦布告した。
「賭けますよ、私は」
止まらなかった。
なんのために私がここにいるのかもわかっていないくせに、女は、女は、と言われるのが腹立たしくて仕方ない。
未来を変えるために来たのだ。
逃げ出してどうする。
「モリトールさんが怪我をしそうなら私が盾になります。それで死ぬかもしれないとわかりきっていたとしても、私はモリトールさんの前に立ちます。国が滅びそうだというのなら、モリトールさんと共に最後まで闘い抜きます。──エドゥアール皇太子殿下」
「は、はい!」
急に呼ばれ、エドゥアールは反射的にいい返事をした。
「なんとしてでも魔女を手に入れたいとお見受けしますが、その前に、私という人間をよく理解しておいたほうがよかったと思いますよ。私は、もうモリトールさんの妻になります。縁談のお話は大変光栄ですが、お受けできません。どうぞ、我が国を存分に満喫して、お帰りくださいませ」
わざとらしく女性特有の礼をしてやると、エドゥアールは顔を真っ赤にして踵を返した。
(やっべ、怒らせた)
いや、怒らせるつもりで語ったのだけれど、国交に影響が出たらどうしよう。こういう忖度が苦手なのも就職しない理由のひとつだったのに、如実にその悪癖が出てしまった。
ぼけっとしていると、モリトールに腕を掴まれて寮の中に戻った。
これは怒られる奴だろうか。隊長に報告されるだろうか。そしてまたハンスに馬鹿にされるという一連の流れだろうか。
(えー。だってムカついたんだもん、仕方なくない?)
寮室に戻ってドアが閉まった途端、モリトールに籠を奪われ床に落されてしまう。散らばる洗濯物。
「そん──」
そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。
そう言おうとしたのに言えなかったのは、どん、とドアに背中をぶつけてしまうほどの勢いでキスをされていたからだった。
──え?




