第16話
ルフの甲高い嘶きが聞こえた。
羽根が空気を掻き乱す音が聞こえた。
今でも近くにいると思っていたのに、ルフがどんどんと大きくなるのを目の当たりにすると、まだ遠くにいるのだと知る。
まだ?
まだそんなに遠くにいるの?
未知の生物から目が離せなくなる。
猛進してくるルフの風圧が重く、雨雫が肌の上でびりびり震えた。
いよいよ、来る。
「お、大きい……!」
ダチョウよりもずっと大きな体に、体よりも大きな翼。
きらりと鋭利な爪が輝くのが見えた途端、ルフの嘴がダーツのように結界に刺さった。
物凄い衝撃だった。地面が揺れ、枝木が揺れ、葉に溜まっていた雨水がざあっといっきに降り注ぐ。雨による灰色のカーテンは視界を悪くさせ、殊更に恐怖心を煽る。
その一部が青い雨になったのは、結界の破片だった。僅かな亀裂から溢れた結界の破片が、雨と混ざりながら落ちてきているのだ。
ルフがばさりと翼を畝らせた。鈍重そうな動きなのに一振りの威力は大きく、突風が駆ける。
ふわりと浮いて、距離を取った。もう一撃、来るつもりだ。
「奴め……! 騒ぎに便乗して結界を壊そうとしてやがる!」
食い縛った歯の隙間から絞り出すように、マルタンが言った。
ふと見れば少年達は互いに抱き合って、ほとんど半狂乱になって泣いている。
隊員達はダチョウで手一杯に見えたが、モリトールがルフのほうの結界修復に回った。
だが、モリトールが抜けた穴は大きく、今度はダチョウ側の結界にヒビが入る。主の援助を受けて、俄然やる気を取り戻したらしかった。ばちばちと、自らの負傷も気に留めず体当たりを繰り返してくる。
このままでは全員死ぬ。
それどころか、国が危ない。
そこではっとした。
あの大老は顔に怪我をしていた。もし、モリトールが未来の大老だとしたら、今日の傷が、あの痕だったのではないだろうか。本当であれば今日、結界を守り切れずに破られてしまうはずだった。そして破られた結界から魔物が飛び込んてきて、世界が阿鼻叫喚する。そして僅かに生き残ったのが、あのコロッセオにいた人達なのでは?
だから魔女に希望を託した。
ここに、6人目がいられるように。
結界が破られたら、未来はきっと変わらない。
未来を救ってくれと言われて飛ばされてきた。なにもしなかったら、意味がなくなる!
ファレロはルフを睨み付けながら、ローブを翻した。
(シールドなら、強けりゃ強いほどいいはず!)
ファレロは調節などお構いなしに掌に力を込めた。突如現れた太陽にルフの茶色の目が釘付けになる。ほう、なにをする気だ、弱小者が。そんな高みの見物らしき雰囲気がある。
もちろん、モリトールも察したらしかった。
「君にはまだ無理だ!」
うるさいな。
(未来のあんたがここに送ったんでしょうが)
シールド。
シールドはどうやって作ればいい?
ファレロはハンドボールくらいの大きさに光を溜めて、ふと魔制具を着けたときを思い出した。皆がシールドを作っていた。そのとき、小さなシールドを引き伸ばす動きをしていた気がする。ならば、この球を引き伸ばせばいいわけだ。
(わかった、ピザの要領でしょ!?)
だてにカフェでバイトしてきたわけじゃない。渋谷でもちょっぴり有名になった本格派ピザも売りのひとつ!
ファレロはバスケットボールを人差し指の先でそうするように光球をくるくると回した。回転を早めると、だんだんと横太りの楕円形になり、紡錘形になり、薄くなるのと同時に広がっていく。それを右手の人差し指から左手の人差し指へと移し替えて、さらに伸ばしていく。
「っんとに、重たいなぁッ!」
苛々するくらい重たい。指がぐしゃりと潰れてしまいそうだ。
まだシールドは小さめのビニール傘程度しかないが、これ以上、保つのは難しい。
「モリトールさん……! これ、飛ばしたい!」
「はあ!? 世話の焼ける奴だ……!」
言いながらも、モリトールは結界を修復しながら駆け付けてくれた。
光の盾を片手で持って、だが、顔が険しくなる。
逡巡したあと、舌打ちをして両手を盾に掛けた。
ばんっ、と音がして、盾が飛び上がっていく。2撃目を食らわそうとしていたルフの嘴をばっちり捉えた。
骨と骨がぶつかったような鈍い音が空気を震わせる。
飛び退いたのは、ルフだった。
なんだ?
なにが起きた?
そんな顔だ。
ルフは目を白黒とさせて、空中で翼をはためかせている。そして少し考えたあと、さらに高く飛び上がって、遥か彼方上空で翼を折り畳んだのが見えた。
「突っ込んでくるぞ!!」
マルタンが言う。
モリトールは目を見開いて狙いを定めているように見えた。ルフの嘴に光の盾を当てなければならない。弾丸のようなスピードで迫る巨体の嘴に小さな傘程度の盾を当てるのは、素人目から見ても難しいとわかる。
それにあの盾は重いのだ。結界の外に浮かび上がらせているのを維持するだけでも疲れてしまいそうだ。
宙を割くようにルフが迫る。
モリトールが唇を舐めた。集中しているのがわかる。
なにか、焦げ臭い。なんだろうと思いつつ、周囲を見回したがわからなかった。
とにかく、万が一、失敗したときのためにとファレロは両手にひとつずつ太陽を作った。
モリトールがちらりと見た気がした。
「投げろ!」
「……えっ」
「ルフに向かって投げろ! 少しでもスピードが緩んだほうがいい!」
「は、はい!」
ならば小さいほうがいい。ファレロは光を膨らませるのを中断し、遠投の構えを取った。
狙いを付けて──
(ここ!)
ルフ目掛けて球を投げる。思いも寄らない速球だったのは、もしかすればモリトールが助力してくれたのかもしれなかった。
すると、飛び出してきた光球に、ルフが驚いた。
目をギラつかせ、翼を広げてブレーキを掛ける。
そこへモリトールがぐんっと自分の両腕で空中を斬った。動きに合わせて、光の盾がルフの嘴をぶん殴る。
甲高い音がして、ルフの嘴が欠けた。
巨大の氷柱みたいな嘴が落ちてくるのを、余っていたもうひとつの光球を投げて軌道を逸らし、誰もいない土へと落下させる。ずどん、と深く刺さったのは決して土が柔らかいからだけではないはずだった。まるで盛り上がっだ岩のようだ。
ルフは弱々しい嘶きをひとつあげた。
まさか、嘴が欠けるなんて。
そんな困惑が見て取れる。ルフは慌てたようにばさばさと翼を動かして飛び去って行った。さらに主力がいないのであればと、ダチョウ達も波のように森の奥へ沈んでいく。
ファレロは深呼吸した。
(あっっっっっっっぶな!! あっぶな! 危なすぎん!? 危うく未来から飛ばされてきた意味がなくなるところだったわー)
しかし、結局、なにもできなかった。守ってくれたのもマルタン達、撃退してくれたのもモリトールだし、自分はなんの役に立てなかった。
あー、怒られる。
またハンスに馬鹿にされる。
あー。
そんな混沌とした心境をなんとか落ち着かせていると、モリトールの掌から出血しているのに気が付いた。
「怪我したんですか!?」
「違う」
「でも、血が──」
「違うと言っている。触るな。マルタン隊長、結界を修復して帰還しましょう」
「ああ、そうしよう」
隊員達が再び結界を修復している間、ファレロは手持ち無沙汰になってしまう。とりあえず、怯えて縮こまっている少年達がまだ雨に打たれていたので、ローブを脱いで被せてやった。これで少しは体も冷えにくくなるだろう。
馬というのは賢い。騒ぎを察してか、少し離れたところに固まって待っていた。
少年達は3人揃っていたほうが安心できるというので、全員まとめてファレロの馬に乗せた。
「少年達をご家族に送り届けねばならないが、事態の報告もしないといけない。ひとまずは結界を修復したが、騎馬隊や装甲兵も伴って再び綻びがないか迅速に確認に来なければ。だから二手に別れよう。俺とほか3名は帰還、モリトールとファレロは少年を頼む」
「わかりました」
そのまま麓まで出ると、マルタン達の乗った馬はふわりと宙を歩くように浮いた。やはり客観的に見ると、魔法とはとても神聖なものに見えた。
「では、頼んだぞ。──ファレロ、よくやった」
去り際、マルタンは確かにそう言った。
喜びと共に、ほっとした。
まったく役に立たなかったわけではないらしい。ふう。
マルタン達が空を駆けていくのを見届けてから、少年に問うた。
「じゃあ君達の家に帰ろう。案内してくれる?」
少年達は素直に道案内を始めた。どうやら3人のうちふたりは兄弟で、残るひとりとは家が隣同士のようだ。案内どおりに進むと、少年達の家の前で大人達がなにやら集まっている。雨衣を羽織る男達が数名いるので、どうやら子ども達の捜索に出ようとしているところらしかった。
「パパ!」
少年が叫ぶと大人達が振り仰いだ。そして駆けてくる。
「お前達!」
「どこに行ってたんだ!」
「心配したのよ!?」
少年達を抱き止めた大人達はひとしきり安堵したあとで、ファレロとモリトールを交互に見た。
「その服は……魔法隊の方々ですか。なにが、どうなって……。いえ、とにかく、息子達を送り届けて下さりありがとうございました」
ファレロはなにか言うのを躊躇った。自分はなにもしていないから、発言するのはおこがましいと思ったのだ。しかし窺い見たモリトールは難しい顔のまま黙りこくっていて、彼らに一言も話さないつもりのようだった。
仕方なく、ファレロは去ることだけ告げた。
「無事でなによりでした。では、失礼致します」
すると、大人達がはっと目を見張った。
「魔女様ですか」
「魔女様だ」
「ああ、魔女様!」
なんだか手を伸ばしてきて崇めようとしてくる。コロッセオの記憶が蘇って、本当にこの世界の人は魔女を信仰しているのだなと思った。
「行くぞ」
モリトールが馬の手綱を引き、背を向けた。ファレロもそれを追う。馬が歩き始めると、自然と宙に浮いた。モリトールが風の魔法を掛けてくれているのだ。
ちらりと振り返る。
しばらく、彼らは雨に打たれながら手を合わせてなにかを祈っていた。




