第19話 “正体”
勇次は呆気にとられていた。
「誠人、どうしたんだよ急に。今から芽依のとこにいくつもりか? 間に合うのかよ」
目の前から走り去る誠人を、思わず目で追い続ける。
しかし、不運にもそこで“あの瞬間”は訪れてしまった。
「きゃーーーーっっ!!!!」
勇次は女性の悲鳴と共にその事実を知り、全身の血の気が引いた。
「やべっ!!」
慌てて前を向くも、その目の前を人の影が通り過ぎていく。
「や、やっちまったーー!!」
芽依の説得も虚しく、女性は自ら命を断ち、飛び降りてしまっていたのだ。
しかも最悪なことに、勇次が僅かに目を離した隙に、女性は下へと落ちていってしまっている。
「あぁ……私はなんてことを……」
芽依はがくりと膝を落とし、うなだれていた。
「くそっ……何のために俺はここにいたんだ!」
勇次も芽依同様に後悔するも、柵に身を乗り出し、恐る恐る下を覗く。
すると、そこには……
「誠人!!」
“5階”から両手を伸ばし、1人で女性を支える誠人の姿があったのだ。
女性は──助かっている!!
大慌てで、勇次は誠人のいる5階へと向かった。
・・・
俺は力一杯、女性の全体重を両腕で支えていた。
俺の中にあった違和感は、“これ”だったんだ。
目の前にある柵……この5階にある柵は、格子状になっており、身を乗り出さなくても手だけは外に出すことができる。
だから大人の女性を支えても、格子状の柵が壁となり、どれだけ下に体が引っ張られても、一緒になって俺が落ちることはない。
思い返せば、俺達の悪夢の記憶は間違いだらけだった。
時間のズレは置いておいたとしても、芽依が言っていた女性の落ちる位置は、だいぶ横に移動されていた。
また勇次が言う、夢にはなかったはずの駐車場に停まる車。
そして、俺が不審に感じていた6階にあった、やたらと綺麗な柵──等々。
あの柵はきっと、後から新しく取り付けられた物なのだろう。
だからあの柵だけ他とは違って綺麗で、“形”すらも違っていたのだ。
新しく付けられた柵は壁のように高く、格子状にはなっていなかった。
そのため、全身を乗り出さないと手を伸ばすことができない。そんな体勢では人を支えることなど不可能だ。
その違いに気付いた俺は、急いで下の階へと降り、何とかギリギリで落ちる女性の手を掴むことができた。
──しかし。
これで、俺の悪夢との戦いは終わらなかった。
落下する人物、差し伸べた手……
あらゆる条件が一致し、俺にあの“トラウマ”が甦る。
『また失敗しちゃうの? また見捨てるんでしょ? 僕のように……』
その声は、幻聴のように、俺の耳というよりは脳内に響き渡っていた。
あの時の、男の子の声だ。
なぜだろう……不思議と手の力が抜けるような感覚がある……
このままではまずいと思った俺は、気合いを入れるようにして叫んだ。
「見捨てなんかしない! 俺は……助けるんだ! 絶対!!」
手を掴む女性の顔が、うっすらと見える。
頭に“死”がよぎり、恐怖が襲ったのか、大粒の涙を流していた。
一度は死を覚悟したはずの、この女性。
だが、俺の握る彼女の手からは、しっかりと“意志”を感じ取ることができる。
手を離そうと思えば、それは簡単にできるはずなのだ。俺の手を叩いてでも振り払ってしまえばいい。
けれども、彼女はそんなことせずに、俺の手を強くぎゅっと握っている。だから間違いない……
“生きたい”──彼女はそう思っている。
今は泣いて、うまく声が出せないだけで、その思いは俺にしっかりと届いている。
だから……だから……
死んでも俺はこの手を離さない!!
『無理しなくていいよ。もう限界なんでしょ? 離しなよ……手を離しちゃいなよ』
「違う……違うんだろ? おまえは、“あの子”なんかじゃないんだろ?」
『──えっ……』
俺に聞こえてくる声が、一瞬だけ小さくなった気がした。
俺は事故の後、病院で男の子と直接話をしている。
あの事故の時は悪ふざけが過ぎていたけれど、本当はとてもいい子で、決してこんなことを言うような子ではない。
今聞こえる幻聴も、昨日夢に出た闇へ引きずり込む男の子も……
全部俺の後悔から生み出された、忌まわしき存在なんだろ?
これもすべては、俺の心の声……なんだろ?
俺は悪夢にも……自分にも……打ち勝たなければならないんだ!!
正体を見破った途端、俺の頭の中で、ガラスが割れるような音がした。
それと同時に、あの声が──消えた。
手に力が入る!!
しっかり……掴まってろよ!!
「うおぉぉっっっ!!!」
雄叫びをあげながら、俺は精一杯の力で彼女を引き上げた。
俺と同じ高さまで持ち上がった彼女は、自らの力で柵を越え、“こちら側へ”と戻ってくる。
「や、やった……!」
俺の気の抜けた声を聞いた途端、彼女は俺に抱きついた。
そして、まるで赤ん坊のように大声で泣き喚く。
「誠人!! やったのか!! おっと……」
すべてが片付いたところで、ようやく勇次がこの場に辿り着いたようだ。
しかし、踏み入ることができない領域だと悟り、俺達とは少し距離を取った。
「芽依に……無事だと教えてあげないとな」
そうぼそっと呟き、勇次は階段の方へと姿を消す。
ここで、さすがにこの大騒動に気付いたのか、5階の住人の何人かが、玄関の外へと出て来た。
泣き続けて何も言えない彼女の代わりに、俺が事情を説明する。
怪我もないように思えるが、念のため、救急車を呼んでもらうことにした。
こうして、俺達は無事、女性を救出することができた。




