第71話 変心
一連の騒動があった次の日の朝。タシェルは、いつも通り寮の自室で目が覚めた。腕や脚の筋肉痛、首の痛み、頭の気怠さ、強烈な空腹感。それら全てがのしかかって来たかのように、全身、特に瞼に重さを感じる。
良く考えれば、昨日は色々なことがあった。精霊協会で捕まってしまったことに始まり、地下牢でのおぞましい出来事、ミノーラとカリオスそしてオルタとの出会い、ドクターファーナスの治療を手伝ってキリキリ働いたこと。
そのどれもが、彼女の心をざわつかせ、心なしか、周囲が賑やかになった気がしていた。
しかし、それはタシェルの気のせいであり、一人自室で目が覚めた彼女は、急激に寂しさを覚える。初めて会った人々や話した人々。そんな彼らが、今ここにはいない。自身の肩を抱き、本当に一人であることを感じた彼女は、すぐさま自身の肩が震えていることに気が付いた。
理由は明白だ。
地下牢での出来事。昨日の色々の中で最も暗く、黒い色。何か一つ違っていれば、今頃私はどうなっていたのだろう。シルフィが来てくれなかったら?オルタが牢屋の壁をぶち抜いて助けてくれなかったら?ミノーラやカリオスが現れていなかったら?そのどれもが奇跡的であり、文字通り、1つ抜ければ危機的だった。
誰かに守られていた。そんな風にも感じられる。
重たい腰を上げ、ベッドから降りたタシェルは、部屋の様子を改めて観察する。脱ぎ散らかされた衣服が床に散らばっており、現在彼女は下着姿だ。自身の脇のニオイを確認した彼女は、着替えることも無く眠り込んでしまったことを後悔する。
すぐさま洗面所へと向かい、そこらにあった手拭いを濡らして体を拭きながら、新しい下着へと履き替える。
最低限の身だしなみを整えて安心しかけた彼女だが、すぐさま思い直し、入念に身体のケアを始める。今日も昨日に引き続きドクターファーナスの手伝いをする可能性がある。ということは、ケガで運ばれてきたオルタの手当てをする可能性もあるわけで……。
「……はぁ。」
小さくため息を吐いた彼女は、黒い記憶の一場面を想い浮かべる。男に脅され、完全に折れてしまった彼女の心。彼女はあの場面で強くあることが出来ずに、屈服を選んだ。それは仕方が無いことだ。そう思いたいし、そう思っている。
しかし、壁を壊して現れた彼の心は、一ミリたりとも折れていなかったように彼女には見えた。例え全身がボロボロになろうとも、凶悪で醜悪な巨悪に対し、真っ向から立ち向かったのだ。
彼女にできなかったことを、やってのけたのだ。それも、あっさりとやってのけたわけでは無いだろう。全身の傷や顔に残っていた涙の跡、吐しゃ物のニオイから察するに、彼は彼女が到底超えることが出来ないと思っていた壁を、壊してきたのだ。
そこまでして、戦ったのだ。
彼女の中のその記憶が、黒くなればなるほどに、彼の存在が眩しくなる。
彼の力になりたい。何かできることをしたい。彼女がそう思うのは、至極当然のことだろう。それは、近付きたいという気持ちの証であり、同時に、二人の間にある距離が、絶望的なまでに遠いのだと自覚している証でもある。
鏡に映る自身の顔を睨みつけ、念じる。
「……変わろう、ただの私から唯一の私に。たった一つで良いから。何かできる私に。」
ドクターファーナスの治療を手伝っていた中で感じたこと。タシェルがしていたことは、誰がしても同じだった。ドクターファーナスは非常に優れた女性だ。経験値も豊富なので、臨機応変な対応や冷静な判断ができる。だからこそ、指示の内容も分かりやすく、タシェルもしっかりと動くことが出来た。
それ故に、タシェル自身の凡庸さが際立つ。
その場にいた誰もが、自身にできることに全力で取り組んでいた中で、彼女にしかできないことなど、皆無だった。誰にでもできることをさせられていたわけでは無く、彼女でもできることをさせられていた。
気が付くと、両の目から涙が零れる。
今まで過ごしてきた日々が、持っていた考えが、繰り返してきた発言が、非常に情けなく見える。
それら全てを洗い流すように、彼女は手のひらで水を掬い、顔を洗った。
鏡の中でさっぱりとしている自身の顔が、少し微笑んでいる気がする。
「よし。行こう。」
寝室へと戻り、制服を着た彼女は、いつも通りの小さなポーチを肩にかけると、部屋を後にする。
寮を出て精霊協会へと向かいながら、まずはハリス会長に今までのことを謝ろうと思案する。そうして、街へと歩き出した彼女は、少し前を歩いている2人に気が付いた。
正確には、2人と1匹だ。
「……ミノーラとドクターファーナスとハリス会長?すごい組み合わせ。なにかあったのかな。」
もしかしたら、また何か起きたのかもしれないと思い当たった彼女は小走りで三人の元へと近付き、声を掛ける。
「お、おはようございます。」
「タシェルさん!おはようございます!昨日はありがとうございました!」
初めに返答してきたのはミノーラである。どうやら足跡で気が付いていたようだ。彼女が声を掛ける前からこちらを振り返っていた。
「あら、タシェルちゃん。おはよう。ぐっすり眠れたかしら?」
ドクターファーナスの質問に「まぁまぁです」と答えると、視線をハリス会長へと移す。相変わらず、鋭い視線を向けられると覚悟していた彼女は、一向に視線を合わせてくれないハリス会長の様子に、焦りを覚えた。
「は、ハリス会長。おはようございます。」
改めて挨拶を試みたタシェルだったが、やはり返事が無い。本格的に相手にされなくなったのかと心が折れかけた時、ミノーラが声を上げた。
「ハリスさん。確かに目をじっと見られるのは怖いですって言いましたけど、無視は酷いと思います。タシェルさんが困ってるじゃないですか。」
「……。ではどうすればいい?見るのも駄目、見ないのもだめなのでは、どうしようもないだろう。」
「ふふふ。昔はあんなに柔らかな表情が出来ていたのに、今じゃ顔に仮面が張り付いているみたいね。タシェルちゃん。気にしなくていいわよ。彼は今、試行錯誤の途中だから。」
「えっと……。はい。良く分からないですけど、分かりました。」
そう言いながらハリス会長に目を向けるタシェル。精霊協会の会長で、精霊に着いて詳しくて、到底届く範囲にはいないと思っていたハリス会長。
そんな彼がミノーラと口論を繰り広げている様を見て、彼女は初めて、ハリス会長に親近感を抱いたのであった。




