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「さあ、行きましょう、夏さん」元気な声で雛が言う。その声を聞いてよかった。元気になってくれたみたいだ、と思って夏は安心する。
「うん。行こう」夏が言う。
二人は並んでドアの前に立っている。
そこから息を合わせて、同じタイミングで一歩を踏み出した。
ドアはまるで怒っているようにすら夏には感じられた。まるでこの先に行ってはいけない、と遥に怒られているような気分になった。
しかしそんな夏の感じかたとは裏腹に、ドアはあっけないほど簡単に開いた。
大きな音もせず、時間もそんなにかからずに、ドアは二人のために道を開いてくれた。
その向こう側は真っ暗だった。
そして今夏がいる場所よりも、ほんの少しだけ、冷たい空気が流れていた。
二人は一緒に歩いてその暗闇の中に移動した。
その瞬間、世界から音が消えた。
無音のまま後ろのドアが勝手にしまった。
完全な闇だ。
ここまで完全な闇を、夏は今までの人生で体験したことがなかった。夏に感じ取ることができる感覚は左手にある柔らかい雛の手の感覚だけだった。
その手が夏を前に引っ張った。
夏はその手に引っ張られるようにして、前に足を進めた。
それからしばらくすると夏の耳に音が思ってきた。はじめに聞こえてきたのは自分の心臓の音だった。どくんどくん、と鼓動が早い。その音を聞いて夏は自分が緊張していることを知った。
「それにしても」
その次に聞こえてきたのは、聞き慣れた雛の声だった。
「ハッピーバースデーって、変ですよね。私、今日お誕生日じゃないですし」不満そうな雛の声。
「いいんだよ。ああいうのはさ、雰囲気が大切なんだから」夏は自分の声を自分で確かめるように、そう発音した。
「そういうものなんですか?」闇の中で雛が言う。声はちゃんと届いているようだ。
「あ、着きましたよ。あそこです」雛が言う。
「どこ?」
「ほら、あそこです」
夏には雛の言っている場所のことがよくわからなかった。夏に見えるものは闇だけ。しかし、どうやら雛には夏とは違うものが見えているようだった。
突然、雛が立ち止まった。
夏もそれに合わせて慌ててその場に立ち止まる。
「この部屋に来るのは本当に久し振りです」雛は言う。
その声はなんとなく嬉しそうだった。
おそらく、雛が足を一歩前に踏み出したのだと思う。
いきなり闇が分かれて、巨大な光の塊が夏の両目を力一杯に叩いた。夏は目を細めて、光を見つめる。
「夏さん。ほら、早く」雛が言う。
「うん。わかった」
夏は雛に手を引かれるようにして、その光の中に入っていった。




