第一章 異世界からの訪問者②
次の日の朝、俺は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。目覚ましというものは、その時間に起きる習慣がついてしまえば逆に用をなさないような気がする。俺は鳴る前の目覚ましのスイッチを切ると、布団から体を起こした。昨日予想した通り、今日は晴れているらしい。カーテン越しにもわかるほど、外は輝いている。
顔を念入りに洗い、冷蔵庫からパンを取り出す。近所のスーパーで売っている中で最も安いものだ。経済的に支えてくれる家族のいない俺にとって、このパンは正に生命線であった。決してうまいとは言えないが、贅沢も言っていられない。俺はパンを口に放り込んだ。
食事を済ませた後は、歯磨きに着替え。一般的な朝の過ごし方と言えよう。俺は普段通りを心がけていた。これから会いに行く相手のことなど忘れているかのように振る舞った。つまり、俺は緊張していたのである。
準備を終えた俺は、家を出た。面会の時間は九時、現在は八時、入間刑務所までは三十分。多少早いが、別に構わないだろう。というよりも、緊張で何をするにも手が付かないのだ。早く出かけてしまった方が、精神衛生上安定しそうだ。
部屋を出ると、そこには意外な人物がいた。
「ミチル?」
部屋から出てきた俺に気づいたミチルが、こちらにブンブンと手を振っている。犬の尻尾にしか見えない。
「ソーゴ!」
俺は急いで階段を降りた。
「ミチル、どうしてここにいるんだ?」
「えっとね、ボクも一緒に行こうと思って。」
「入間刑務所にか?」
「そう。もちろん中には入れないけど、入り口までは一緒に行こうかなって。いくらソーゴが鈍感でも、やっぱり緊張すると思うし。」
余計なお世話だと言おうとしたが、俺の意に反して口は開かなかった。ミチルの言っていることは確かだ。その事実が俺の口を開かせなかったのだろう。
「……そうか。」
しばらく時間をかけて、出てきたのはこの一言だけだった。文句も出なければ感謝もでない。自分の口下手度合いにイライラする。
ミチルは微笑んだ。まるで俺の気持ちなどお見通しだと言わんばかりに。
ミチルと俺は、電車に揺られていた。入間刑務所までの移動の時間のうち、大半を占めるのがこの電車移動だ。土曜日にも関わらず、乗っている客は少なかった。俺たち以外では、家族連れが二、三組いる程度だった。そのため、俺たちはボックス席に座ることができた。今、俺とミチルは向かい合って喋っていた。
「ねえねえソーゴ。」
「なんだ?」
「昨日も滝谷で喧嘩騒ぎがあったんだって。今ニュースサイトに上がってるよ。」
「ふうん。」
滝谷は元々治安の良い場所とは言えなかったが、それにしても最近は物騒である。一体誰が暴れているんだろうか。
「また発砲事件があったのか?」
「いや、昨日はなかったらしいよ。ただ、不良グループがボコボコにされていたんだって。」
ミチルがスマートフォンを器用に操っている。俺も一応持ってはいるのだが、あまり使いこなせているとは言えないのが現状だ。フリック入力よりも、ついつい連打をしてしまう。音声入力なんて、試したことすらない。
「詳しいことはわかんないんだけど、どうも一人にやられたらしいって噂になっているみたい。」
「一人に?流石にそれはないんじゃないか?」
「常識的に考えたら、ありえないよね。仮に拳銃を持っていたとしても、よっぽど喧嘩慣れしていないとグループを潰すなんてことできないと思うし。」
ともかく、最近滝谷が危険だということはよくわかった。一つ気になるのは、その拳銃の件である。弾丸も本体も見つからず、銃声と貫通した跡だけが残っている。なぜかはわからないが、俺にはその部分が無性に気になった。なんとなくだが、胸騒ぎが収まらなかった。
「やっぱり、滝谷には近づかない方がいいよ。」
「そうだなあ。」
一応、警察官の息子として最低限のことはできるようにと空手や柔道などは嗜んでいた。そこらのチンピラ程度が相手なら問題なく対処できるとは思う。しかし、相手が拳銃持ちとなると話は違う。本当に滝谷には寄らない方がいいのかもしれない。
そういえば、俺が最近滝谷に行ったのはいつのことだっただろうか。考えてみると記憶が曖昧で、よく覚えていない。だが、高校生になってからは行っていないはずだ。少なくとも、滝谷で銃声を聞いたなんていうことはなかった。
「そろそろ着きそうだよ、ソーゴ。」
記憶の糸を辿っていた俺だったが、ミチルの言葉で現実に引き戻された。
「大丈夫?あんまり顔色が良くないみたいだけど。」
「ああ、大丈夫だ。」
「やっぱり緊張しているの?これから賀東に会わないといけないから。」
そうだ。確かに賀東との面会は俺を緊張させていた。加えて拳銃のことも、多少は影響しているのかもしれない。
「……なんでもない。大丈夫だ。」
俺は後者の不安のタネを胸の奥にしまい込んだ。わざわざ緊張の元を増やす必要はない。今は何よりも、賀東とのことを考えなければ。
車内に到着のアナウンスが響く。俺は無言で立ち上がった。ミチルもパタパタと俺についてくる。俺たちは並んで電車を降りた。駅にもあまり人はいない。そもそも、そんなに大きな駅ではない。元々乗降客は多くないのだろう。
一口に刑務所での面会と言っても、色々なパターンがあるらしい。ドラマなどでよく見る、ガラス越しの対面もあれば、仕切りの存在しない対面もあるそうだ。俺と賀東との面会は、前者のパターンで行われた。
「久しぶりだな、賀東。」
俺は、ガラスの向こうにいる男に声をかけた。大柄で、筋骨隆々。髪の毛は短く揃えられている。その目は、収監された犯罪者とは思えないほど生気に満ちていた。今その目に浮かんでいる感情は何か。俺には嘲笑に見えた。目だけではない。その姿勢や口元の緩みなど、すべてが俺を嘲っているように思える。
賀東は、返事を寄越さなかった。今までと同じだ。これまで何度も賀東の元へ通ったが、まともなコミュにケーションが取れたことなど一度もない。
「今日こそ、真実を話してほしい。お前の罪を決める裁判はとっくの昔に終わっている。今更何を隠すことがあるんだ。」
賀東の口元の緩みが、徐々に大きくなってきている。やはり、話すつもりは一切ないということなのだろうか。
「お前に聞いたいことは、結局のところ一つだけだ。お前が倉庫に立てこもったあの日、一体何があったんだ。」
「……ふふ。」
賀東が笑った。これは初めての出来事だった。これまでは、表情の変化こそあれど、声に出して笑うことはなかったのだ。
「何がおかしい。」
「毎回毎回、よくもまあ同じことを聞きにくるもんだってな。……ああ?何目をまん丸にしてやがる。」
賀東が初めてまともに喋ったのだ。驚くのは当然のことだ。
「同じことを聞きにくるのは、お前が質問に答えないからだ。俺は真実を聞けるまで、何度でもここに来るぞ。」
「バカバカしい。俺は何も答えない。そんな義務はねえからな。それに、お前だってあの現場にはいただろう。俺に聞く前に、自分のオツムに聞いてみたほうが早いんじゃねえか?」
「それで解決するのならば、お前のところなんて来やしない。」
賀東が大声で笑い始めた。本当に、愉快でたまらないといったようだ。俺は、その笑いが収まるまで無言を貫いた。
「憶えていないってか。あんなに笑える展開を?勿体無いことこの上ないな。」
「笑える?」
どういうことだ?世の中で通説となっているガス爆発説は笑えるようなものではない。少なくとも俺にとっては。ということは、やはり現実は異なっていたのだろうか。
「どういうことだ。一体あの日、何があったっていうんだ。」
「おっとっと、あぶねえ。いらないことまで言っちまうところだったぜ。あの日?ガスが爆発した。それだけだろう。」
この男は明らかに嘘をついている。それはこいつの態度を見れば明らかだ。にやにやと笑いながら、俺に嘲りの目線を寄越しながら、真実を語るわけがない。
「ガス爆発なら、どうして俺とお前だけが生き残ったんだ。全員死んでなければおかしいじゃないか。」
「別におかしくねえだろ。たまたま俺とお前は爆風をもろに受けなかった。そういう場所にいたんだろうよ。」
そんなことで納得ができるものか。あの倉庫には爆風を遮れるものなんて何もなかった。
「俺たちは爆心地から少し離れていた。それでいいじゃねえか。お前の親父は、なあんにも気づかずに俺を撃とうとして吹っ飛んじまった。母親はそれに巻き込まれた。それだけ。何が気に入らねえんだ?」
「俺と母は一緒に誘拐された。だったら爆発の瞬間も一緒にいたはずだろう。それなのに、母だけ欠片も残さずに消えてしまった。そんなことがありうるか?」
「知らねえよ。事実そうなっちまったんだからよ。たまたまお前の母親が爆発に弱かっただけじゃねえの?」
ふざけたことを言いやがって。やっと口を開いたかと思えば、結局俺たちを馬鹿にするばかり。思わず俺は立ち上がりかけた。
「おっと、怒ったか?だが、どうしようもねえだろう?お前はそこでおとなしくしている他ねえんだよ。」
「てめえ。」
俺は右腕に力を込めた。しかし、すぐにその手を下ろした。こいつは俺を挑発してからかっているだけだ。それに乗っかってしまってはいけない。面会の時間はそんなにないのだ。
俺は座り直すと、賀東の目を見つめて言った。
「あの日、お前にとっては愉快な出来事が起こった。だが、それは誰にも話してはいけない類の出来事だった。」
「ああ?」
賀東は俺の目を睨み返した。突然落ち着いて話し始めた俺に、警戒心を抱いているようだ。
「お前が話さない理由は、話してしまうと自分が不利益を被るからだろう。裁判でもお前は無言を貫き、誘拐の罪のみだと主張した。……お前、それ以外にも何かやったな?」
賀東は一瞬あっけにとられたような顔をしたが、それも長くは続かなかった。あろうことか、この男は吹き出したのだ。
「あひゃひゃひゃひゃ。いーひっひっひ。本気で言っているのかよ、お前。」
この笑いは本物だろうか。俺を欺くための演技なのかもしれない。だが、俺には判断がつかなかった。
「俺は、誘拐しかしていない。これは間違い無いぜ。それ以外はなんの罪も犯してはいない。なんなら神にでも誓ってやろうか?」
賀東の顔は醜く歪んでいる。他人をあざ笑う時、人はここまで醜くなれるのか。俺は不思議と冷静に、そんなことを考えていた。
「最後だと思っておしゃべりしてやったがよ。本当に何も憶えてないんだな、お前。」
「なんだと?」
「お前は何も見えちゃいないんだ。真実はお前の目の前にあったのになあ!」
それを最後に、賀東は再び黙り込んでしまった。時折俺の質問に笑い声を漏らすだけで、結局真実を話すことはなかったのである。