第三章 脱獄犯、阿久津玄二④
「ミア!」
俺は入り口に向かって駆け出した。何があったんだ?いや、それは簡単に推測できる。おそらく怪物が入り口の近くで休んでいたヴェロニカを襲ったのだろう。それに対し、ミアが瞬間移動で割って入った。だとすればあの音は—。
広間の入り口、僅かな光のもとに二人の少女が倒れていた。ヴェロニカには外傷はない。しかし、ミアの方は激しく出血していた。ドクドクと流れる血の中で意識を失っているのか、ピクリとも動かない。
怪物は、ミアの腕を掴むとそのまま持ち上げた。だらんと伸びたミアの体。怪物は、ゆっくりと口を開いた。ギザギザの歯が全て見えるほど、大きく。
「やめろおお!」
俺はミアの体を抱きしめると、奪い返そうと思い切り引っ張った。しかし、怪物の力は俺のそれを凌駕している。逆に俺ごと引っ張られるだけだった。俺は引っ張るのを諦め、怪物の懐に入り込み、何発も殴りつけた。しかし、今や俺の倍ほどにまで大きくなった怪物に、俺の拳は効かなかった。それどころか、邪魔だと言わんばかりに振り払われてしまった。
地面に叩きつけられ、またしても無様に転がる。周りには先ほど吹き飛ばされた石炭が散らばっていた。
地面に這いつくばっている姿をミアが見れば、きっとまたバカにしてくるだろう。しかしそれは、彼女が無事だった場合のことだ。今俺が何もできなければ、彼女は確実に怪物に食われてしまう。そんなこと、させるわけにはいかない。俺だって、転んでもただは起きないと決めているんだ。だから。
「そいつから離れろお!」
俺は、右手で掴んだ石炭を奴の口の中目がけて投げ込んだ。
綺麗な弧を描く石炭。それは俺の狙い通り、大きく開けて涎を垂らしていた奴の口の中に飛び込んだ。
「ギュガアアアア!」
聞いたことがないような、いや違う、再び聞く何かを恐れるような声。奴は再び闇に紛れようとした。しかし、
「そうは……させない……!」
少女の口から漏れる声。奴はよりにもよってミアを掴んでいたのだ。そのままミアが飛べばどうなるか。
一度は闇に溶けたものの、結局は俺の目の前に二人は現れた。俺はすぐさま奴に躍りかかった。その顔面に向けて拳を打ち込む。甲高い悲鳴を無視して回し蹴り。効いている。明らかにダメージが通っている。
そう、さっきまでとは状況が大きく変わったのだ。奴の体はひとまわり小さくなり、攻撃も防御も以前ほどの凶悪さではなくなった。
ここにきてようやく、奴の能力の弱点が露呈されたのだ。奴は、人肉以外を食べることができない。もっと早く気付くべきだった。奴はこれまで人肉以外を一切食べていなかった。最初の広間には、手をつけていない料理があった。にも関わらず、奴が食べたのは人間だけだった。その人間も腸だけは頑なに食べなかった。腸の中には消化中の食べ物が入っているかもしれないからだ。そして、ミアのステッキが奴の口に直撃した時、奴は大きく動揺した。今ならわかる。奴は無理に人肉以外を摂取すると、弱体化してしまうのだ。だから、口に思わぬものが入って来た時、異常に反応するのだ。
そして今、奴は石炭を一欠片飲み込んでしまった。そのため先ほどまでの強さは失われてしまったのだ。今が最大のチャンスだ。このまま人肉を食わせず攻め続ければ、俺にも勝機はあるかもしれない。
奴が反撃に移った。ミアをその場で投げ捨てると、両手を振り回しながら俺の方へ突進してくる。だが、やはり今までのようなスピードはない。俺は奴の攻撃をギリギリで躱すと。背中に蹴りを入れた。奴は頭から地面に突っ込んだ。しかし、すぐに立ち上がると、俺の方へ向き直り、再び突進を試みた。俺はもう一度躱そうとしたが、今度は奴の素早さが勝った。腕を交差して防御体制をとったが、それでも防ぎきれす、俺は後ろに吹き飛ばされた。さらに奴は俺に馬乗りになる。振り下ろされる奴の腕。爪が皮膚に届くギリギリのところで奴の腕を掴み、辛うじて堪える。
弱体化したとは言っても、歯が立たなかった相手が、せいぜい互角になっただけのこと。気を抜けば、こっちがやられる。
俺は奴の腹を蹴り飛ばした。もしも奴が弱体化していなければ、その巨体を蹴り飛ばすことはできなかっただろう。今の奴の体格は、俺とそう変わらない。力も、素早さも、完全に互角といって良さそうだ。
立ち上がって構えを取る俺に対し、苛立ちを隠せないのか足を踏み鳴らす怪物。とにかく今はひたすらに攻め続けなければならない。奴に人肉を食らう隙を与えてはならない。
荒れる息を整えることもせず、今度は俺の方から奴に襲いかかった。奴の顔面を狙って拳を後ろに引いた。それを見た奴は顔面を両腕でガードした。しかし、これはフェイントだ。胴が、ガラ空きだ!
顔面への攻撃を寸前で止めた俺は、隙だらけになった奴の胴に思い切り蹴りを入れた。気持ちの悪い感触がして、奴が吹き飛ばされる。これは相当効いたはずだ。人間同士の闘いなら、まず確実に勝利を手にできる、それくらいの一撃だった。
しかし、相手は怪物だった。この程度ではまだまだ倒しきれない。奴は音もなく立ち上がると、こちらを睨みつけた。
息が上がりそうだ。疲れがピークに達しつつある。それでも、止まることは許されない。こいつの動きを止め続けなければ。俺は奴に向かって駆け出した。
次の瞬間、俺の目の前から奴が消えた。また闇に紛れようというのか。だが無駄だ。あいつの居場所は鎖が教えてくれる。
……広間は、無音だった。鎖の音がしない。どういうことだ。さっきまで確かにジャラジャラとなっていたはずなのに。
まさか、ヴェロニカが気絶したのか?このタイミングで?あと少しで、奴をどうにかできそうなのに!
動揺する俺は隙だらけだったことだろう。突然、左肩に衝撃が走った。奴のものと思しき爪が、俺の肩に食い込んでいる。
「ぐあああ!」
爪による傷自体は大したことはなかった。しかし、左肩はイサークとの闘いでも負傷している。どうやら、その傷口も開いてしまったらしい。血がダラダラと流れるのがわかる。左腕に力が入らない。
再び奴は、闇に消えた。気配は感じるのだが、どこにいるのかは皆目見当もつかない。ヴェロニカもミアもまだ動けそうにない以上、俺が奴を食い止めなければならないのに……。
俺は、限界まで目を凝らした。僅かにだが、目が暗闇に慣れて来ている。これなら、目の前に来られても対応できるか?
その直後だった、奴が俺に襲いかかって来たのは。再び左から、俺の左肩を狙っている。だがその動きは見えている。見えさえすればこっちのものだ。俺は体を捻って躱そうとした。
しかし、俺の気づかないうちに、体は限界を迎えていたらしい。俺の動きは頭の中で思い描いていたような俊敏なものではなく、ナメクジのように緩慢なものだった。反応しきれなかった俺は奴の攻撃をもろに食らってしまった。背中から地面に叩きつけられる。一体何度目だろうか、地面に倒れ込むのは。そして、再び走る左肩の激痛。奴の爪が、今度は深く食い込んでいる。完全に掴まれた。身動きが取れない。
奴が口を大きく開いた。俺の顔に、奴の涎がボトボトと落ちてくる。人の血の匂いが、奴の息とともに襲ってくる。俺は必死にもがいた。諦めるわけにはいかないのだ。こんなところで、終わるわけにはいかない。しかし、俺の体は動かなかった。左肩だけではない、それ以外の部位もまともに動いてくれない。ヴェロニカもミアも倒れたままだ。もう助けは来ない。
奴の視線は、俺の喉元から離れない。それは、獲物にとどめを刺す獣そのものだった。もがく俺を物ともせず、ついに奴は俺に齧り付いた。




