序章 繁華街にて
「や、やめてくれぇ!」
男は懇願した。その顔は恐怖に歪んでいた。腰は抜け、足はガタガタと震えていた。命がかかっているのだから当然のことだったかもしれない。
男の目の前には黒い影。夜の繁華街の輝きが背後にあるせいで、男はその姿を視認することができなかった。しかし、その目に映る明確な敵意だけは、なぜか男にも理解できた。
「頼む、許してくれぇ!」
影は全く聞いていないようだった。ゆっくり、一歩ずつ男に迫って来る。その動きに、一切の躊躇はなかった。まるでそうすることが当然であるかのように、男を追い詰めて行った。
男には仲間がいた。それも一人や二人ではない。その日は十人ほどのチンピラが集まっていた。しかし、それらはこの影一人に伸されてしまった。ただ一人、すぐさま逃げ出した者がいたが、それ以外は一瞬で、半殺しにされてしまったのである。
男は必死に逃げようとした。影に背を向け、四つん這いで路地の奥に向かって進んだ。しかし、残念ながらその先は行き止まりであった。当然、男はすぐに追いつかれてしまった。
そして、影はその右手に持っていたものを男に向けた。それは、回転式拳銃であった。
一瞬、男は呆然と固まった。しかし、自分に向けられているものに気づくと、懸命に喚き始めた。
「お、俺たちが何をやったって言うんだぁ!」
実際のところ、男は「何もやっていない」と言うには罪を重ねすぎていた。繁華街のチンピラの一人として、恐喝や喧嘩、女性への暴行など、行った悪事は枚挙に遑がない。それでも、突然殺されるような理由はないと、男は本気で考えていた。
「なんで俺なんだ!もっと殺すべき相手がいるだろう!俺なんて、チンピラの末端なんだぞ?」
遂に男はベソをかき始めた。その姿は幼稚園児と何ら変わりがない。自分のやったことに責任が持てず、他人にそれを押し付けようとする。幼稚園児なら叱ってもらえるが、残念ながら男は既に成人していた。髪の毛を派手に染めて、懐にナイフを忍ばせている男が子供のように泣き叫んでいる。それはある種の地獄絵図であった。
影が拳銃を突きつけたまま、ゆっくりと近づいて来る。その銃口は一切ぶれず、男の眉間を捉えていた。逃げ場を失った男は、身動きすら取れず、ただその銃口と影を交互に見つめるしかなかった。
その時、男は気づいた。影の後ろに誰かがいるのを。それは、何やら鉄パイプのようなものを振り上げていた。その姿に、男は見覚えがあった。逃げ出したはずの男の仲間だ。男を救うためなのか、単に仲間がやられた怒りに燃えているのか。どちらにせよ、その目は殺意に満ちていた。男にとっては福音と言っても良かったかもしれない。何しろ助かる可能性が生まれたのだから。
「俺の上を教えるから、頼むから見逃してくれよぉ。お前だって、こんな末端よりも大物を殺りたいだろう?」
希望が生まれたためか、男は僅かにだが饒舌になった。何とかして影の注意をこちらに引きたいという魂胆が見え見えだった。
男が必死に言葉を紡ぐ中、仲間は影の背後に立った。さらに高く鉄パイプを振り上げる。その行為は、一撃で決めてやる、という決意表明に他ならなかった。強く鉄パイプを握り締める。仲間の目は、影の後頭部に注がれていた。そしてその目が大きく見開かれ、仲間は鉄パイプを思い切り振り下ろした。
しかし、それが影に当たることはなかった。ズドンという大きな音がして、次の瞬間には折れた鉄パイプの残骸が宙から降ってきた。カランと寂しい音を立てて、残骸が路地に転がった。影が振り向きざまに拳銃を発砲し、鉄パイプを折ったことに気づくまで、男には一瞬の時間が必要だった。そして、それに気づいた時にはもう遅かった。
影は猛然と仲間に襲いかかっていた。振り向いた勢いを利用して、左手で仲間に殴りかかる。その拳は仲間の右頬を正確に捉え、仲間は為す術もなく吹き飛ばされた。影は仰向けに倒れた仲間に馬乗りになって何度も何度も殴りつけた。
男は、その光景をただ眺めていた。眺めることしかできなかった。あまりの恐怖からか、男は胸に手を当てて呼吸をする。その時、手に当たるナイフの柄の感触で男は気づいた。この瞬間が、男にとって最後のチャンスであることに。
男はナイフを取り出すと、影に向かって駆け出した。その目は血走っていた。ナイフを握りしめた両手は、関節が浮かび上がるほど白くなっていた。その行為によってどれだけの罪を背負うことになるのか、男は気づいていないようだった。
「死ねやああ!」
振り上げたナイフが、繁華街の光でぎらりと輝いた。そしてその凶刃を、男はがむしゃらに振り下ろした。
しかし、そのナイフも影を捉えることはなかった。影が放った後ろ蹴りが、男の腹を捉えたからだった。衝撃でナイフを取り落とした男は、よろよろと後ろに倒れこんだ。その男に、立ち上がった影が迫る。その左手には、いつの間に拾ったのか、男のナイフが握られていた。後ろにいる仲間は、既に気を失っているようだった。
「あ、ああ。」
もはや男には言葉を話す余裕すら残されていなかった。仲間は全滅し、唯一の武器さえ奪われた。再び目の前に立つ影に恐怖した男は、遂に小便を漏らしてしまった。
影が再び銃口を向ける。ゆっくりと近づいていき、そしてそれを男の額に当てた。男は呻くばかりだった。涙と鼻水とよだれで顔はぐしゃぐしゃになり、何の抵抗もできずに終わりの時を待っていた。影が引き金に指をかけようとする。
パトカーのサイレンが聞こえ始めたのは、この瞬間だった。ウーウーと大音量を響かせながら、警察がこちらにやってきていた。それを聞いたからだろうか、影は拳銃を下げ、闇に紛れるように消えた。
助かった男だったが、影が消えたことにすら気づいていないようだった。男は恐怖のあまり、気を失っていた。