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或る男とその妻の物語  作者: 玉響なつめ


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2/3

(中)

 病気などした事がない妻だと思っていた。

 いつだって疲れているのは自分で、苦労しているのは自分で、妻はそんな自分をサポートしてくれる存在だと思っていた。


 慌てる彼は、ケーキを放り出して声をかけた。

 返事がない事が、こんなにも恐ろしい事だとは思わなかった。

 いつだって妻は、ちゃんと返事をしてくれていた。

 そんな当たり前の事が突然なくなったことに動転した。

 温かい身体が、冷たくなったらどうしようかとぞっとして、手が震えた。


 声をかけても揺すぶってもまるで反応しない妻の周りをおろおろとして、ようやく救急車を呼ばなければという考えに至った。

 動揺しながら救急車を呼び、救急隊員にあれこれ聞かれるままに答えるがわからない事も多くて自分がモノを知らないようで恥ずかしかった。家族の事なのに、よくわからないというのがこんなにもあるのだと知った。


 そして、妻の入院が決まって彼は荷物を取りに家に戻った。何が必要なのか言われた気がしたが、動転してあまり覚えていなかった。ただ、看護師に大丈夫かと問われたような気がする。大丈夫か案じるべきは妻の方なのだと、戻ってきて思った。


(着替えと、保険証と、診察券)


 ああ、どこにしまってあるのだろう。彼は途方に暮れた。

 几帳面とは言えない妻だがどこかにまとめられている事くらいわかっている。自分が問えば常に妻はそれらを用意してくれた。

 着替えは箪笥の中にあるだろう、そのくらいはわかるが他がわからない。

 稼ぐばかりで後の事は妻に任せっきりだったのだなあと改めて思う。家中を探し回って、ようやく見つけた頃にはくたくたになってしまった。


 箪笥の中は、彼の服がたくさんあった。

 妻の服は、あまりなかった。

 その事に驚いた。いくら倹約家でもおかしなほどに量がなかった。理由は知らない。不自由をさせない程度に稼いでいたはずなのに、と胸の中がもやもやした。


 はぁ、と吐き出した溜息は、彼が思うよりも人がいない家の中で響く。

 ケーキの箱が無様に、転がっていた。

 妻が退院したら、また買ってやろう。服も自分はよくわからないが、妻が望むだけ買ってやろう。自分が一緒ならば遠慮もしないだろう。

 そう彼は思った。


 だが、彼の希望は叶わなかった。


 戻った彼に、医師は告げた。妻は、もう長くないと。

 残された時間をより長くするためには入院しておくべきだと。

 治療をせずに自宅に戻すならば、先程告げた命の残数は、もっともっと短くなってしまうとも言われた。


 理解、できなかった。


(誰が。おれの女房が? どうして。なんで)


 この医師がヤブなんだと思った。

 だから他の病院にも転院させてくれるか検査だけでもと食い下がった。

 医師は嫌な顔一つしなかった。

 

 他の病院とも連絡を取って診察をしてもらったが、結果は変わらなかった。


「……どうして……」


 自分は妻に、まだ何一つ話せていない。

 これからどうしたいのか、寂しい思いをさせてすまなかったとか、自分がそばにいていいのかとか、どこかへ一緒に行こうとか。

 浮かぶのは、他愛ない事でしかなかった。

 嫁に行った娘が、いずれは孫を連れて帰ってくるかもしれないなんて笑って妻が話していたのはつい最近だった気がする。


 それに対してなんと答えたのかも、覚えていなかった。


 妻がいない家は、暗かった。

 温かさの欠片もない家だった。

 

「……くそまずい」


 料理くらいできると思った。

 妻がレシピをメモに取っていた事は知っていたから、それを見つけ出して料理を作った。多少失敗もしたが、食えないわけではなかった。


 それでも、まったく美味しくなかった。

 それは、妻が作ってくれたから美味しかったのだと今更知った。

 美味しいと言ってやれば良かった。

 妻の作る料理は、どれもこれも旨かった。無言で茶碗を突き出しても、怒る事なくはいはいと笑顔でおかわりをついでくれた。


(一人きりの飯は、なんて不味いんだろう)


 食欲なんて、出るはずもなかった。


 それから男は、毎日のように病院に詰めた。

 妻の体から伸びる管を、なんとも言えない気持ちで眺めた。

 これが妻を支えているだなんて、信じられなかった。


 時折苦しそうにしても、妻は彼を見てほほ笑むのだ。


「ありがとう……」


「何を、言ってるんだ」


「だ、って、そばに、いてくれるじゃ、ありませんか……」


「それは……」


 今までそばにいなかった自分がいても良いのだろうか。

 妻の手を握る男の手は、汗がにじんでいた。


 娘や息子も、戻ってきて妻の看病をした。

 それでも一番側にいたのは、男だった。

 会社を早期退職して、病院でずっと傍らに寄り添った。


「いいんですよ、ずっとここにいたら、つまらないでしょう?」


 遠慮がちに言う妻に、彼は首を横に振る。

 それしか、妻にしてやれる事が思いつかなかった。なんて無力で、何も知らないのだろうと自分に腹が立って仕方がなかったが、男は他にどうしようもなかったのだ。

 今の妻にはケーキを買う事だってできない。食欲を失った妻は、すっかり痩せ細ってしまっていた。


「おれがいたら、邪魔か」


「そんな事ありませんよ。いてくれたら嬉しいです」


 妻と過ごす時間は、男にとって大切なものだった。

 多くの言葉を必要としなくても、無理に会話を探さなくても妻といる時間は心地良いものだった。

 

 痩せ細り、息苦しそうにする妻を見て男は目を細めた。

(ああ、こんなにも妻は儚い存在だったのだろうか)


 いつだって笑ってくれて、自分の我儘を許容してくれて、子供たちの母になってくれて、寄り添ってくれていた妻にしてやれる事は他にないのだろうかと思う。

 もっと着飾れば良いのにだとか口にしなければ良かった、もっと言うべき事は他にあったに違いない。それなのに今もそれは、言葉にならなかった。


 妻を看取る、そんな日が来るなんて夢にも思っていなかった。

 人生百年、定年したら一緒にいられなかった分、そばにいてやろうだなんて思っていた矢先だ。

 まったく自分の人生において、想像も想定もしていなかったのだ。妻が先に逝くだなんて、考えた事もなかった。

 ただ結婚して子供ができて、いずれは孫が生まれて、子供と孫に囲まれて……その程度にしか考えた事がなかった。


 何かを妻に言うべきだと自分の中で思うのに、何一つ言葉は浮かばなかった。

 ただ、ただ、自分の妻の手を、男は握る事しかできなかった。来る日も、来る日も。


 でもその日は、違った。

 前日に、部屋に花が欲しいと妻が言った。見舞いの花ならいくらでもあるだろうと答えた男に、妻は男が選んだ花が欲しいと言ったのだ。


 花屋が空く時間を待ってから、妻の見舞いにと言った男に店員は愛想よく花をまとめてくれた。なんだか柄じゃなくて、恥ずかしかった。

 見舞いのために病院に行くバスの中で、ふと気が付いた。


(ああ、初めて個人的なものをねだられたな)


 結婚指輪も式場も、なんだかんだと互いの両親が口出しをしてきて二人で辟易したものだ。

 自宅は一家の主が寛ぎやすいようにと男の好みを反映してくれた。

 子供たちが生まれてからは欲しがるものは子供のものばかりだった。

 働きたいと言ってきた時も、男が反対したならばきっと止めていたんじゃないかと思う。


 甘いものが好きだと思っていたが、そういえば妻は自分でケーキを買っている姿を見た事がない。男が働いている時に食べていたのかもしれないが。

 そうやって考えると、個人的に妻が欲しがったのが初めてだと思うと、なぜだか男の心をそわそわさせた。


 病院に着いたら、花を飾って明日はどんな花がいいか聞こうか。そんな風に思った男は、妻の病室の近くになるにつれ騒がしくなっていくのを見て顔色を無くした。そして持っていた花を思わず落として、駆け出した。


 病院の廊下に、看護師と医師の声が響く。

 落とされた花は、叩きつけられるような形になって無残な姿となっていた。

最終話は本日の夜に投稿できたらいいな……!

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