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或る男とその妻の物語  作者: 玉響なつめ


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1/3

(上)

突発的な短編連載です。

3話で終了予定ですが、(中)は12日の昼に更新予定です。

 彼と、妻は見合いだった。

 その年代では割と珍しい話でもなかった。


 上司の知り合いだという女性と見合いをし、結婚をする。ごくごくありふれた光景だ。

 家庭を持った方が昇進にも影響するということもあったし、周囲がどんどんと結婚し子を持つことに彼も焦りがなかったわけでもなかった。

 上司の紹介というだけあって、身元は保証されているようなものだし問題はないだろう。よほど素行の悪い女性でもなければ。


 その程度の考えで、結婚までとんとん拍子だった。

 彼の妻となった女性は、とても穏やかに笑う人だった。


 特別な事は何もなかったように思う。

 結婚して女性は退職し、家庭に納まるべきだという当時の風潮に従って彼は妻に専業主婦になってもらってひたすら仕事に打ち込んだ。

 家に帰れば掃除の行き届いていたし、温かい食事と風呂が用意され、ふかふかに干された布団が彼を癒した。


 結婚というのは人生の墓場だという人間もいたが、彼は良いものだと思った。

 それを口に出した事はなかった。

 行動で示せばよいと思ったからだ。少なくとも、彼の父親はそうだった。


(稼いで、妻子が不自由なく暮らせるようにするのが男の甲斐性だ)


 結婚してから新婚旅行以外、特に夫婦で行動をする事もなかった。

 流石に少しだけ、申し訳がなくて妻が興味を示したレストランに結婚一年目の記念日で行った。


 シャレた内装と横文字のメニュー、味わい慣れない料理に彼はとうとう我慢できずに悪態をつき、それを耳にした料理人がまたそれに応じて険悪なムードになった。

 コース料理を注文したけれど、彼らはデザートを待たずに席を立った。


「ああいうのは……おれは好かん」


「そうね、今度はもっと気楽に行けるようなお店に行きましょう。ね、あなたのおすすめのお店ってこの近くにあるかしら? 緊張であまり食べれなかったから、おなかが空いているの」


 ばつが悪い彼に、妻は責めなかった。

 ほっとした。結婚記念日を台無しにしたと責め立てられるとばかり思っていた彼は、少しだけ肩の力を抜いて高架下の屋台に案内して、二人でラーメンを啜った。

 ちょっと仕立ての良いスーツとワンピースを着た男女が、高架下の屋台ラーメンを啜る姿は格好がつかなかったが、妻は笑ってくれていた。美味しいと言ってくれた。


 その姿に、ああこいつは本当に安上がりで良い女だなと思ったのは、内緒だった。

 

 それから子供ができて、彼らの生活はもっと忙しなくなった。

 近所づきあいも家庭の事も子育ても、全部が妻に任せっきりだった。

 役所の手続きや書類も、妻に任せた。なぜなら妻の方が、字が綺麗だったから。それだけだ。面倒だったわけじゃない、とその時は言ったが正直そんなものに時間を費やすくらいなら休みたかった。


(おれは働いているんだ。妻子を養うために必死で働いてるんだ。だからあいつだって、妻なんだからそのくらいやってくれなきゃ困る)


 おれが稼いでやってるから、暮らせているんだ。

 その想いが、彼の中で中心だった。

 とはいえ、後ろめたさがまるでないわけではなかったのでなんとなく、帰りがけにケーキを買って帰ったら妻は大層喜んだ。

 そんな高級品でもないのに甘いものが好きなんだなと彼は思った。妻の好みをよく知らないなと今更気づいたが、時折思い出したようにケーキを買うようになった。


 それで喜ぶ妻を見て、安上がりで本当に良い妻だなあと思ったのは内緒だ。

 機嫌よくケーキを食べる妻と子供は、彼にとって忙しい中の癒しだった。


 その後、妻は子供が小学校に上がった頃パートで働き始めた。

 周囲では妻を専業主婦でいさせてやれないのは甲斐性がない証だという人間と、専業主婦を飼ってやるよりは好きにさせてやればいいじゃないかという人間がいた。

 彼は妻が働きたいというから働かせてやっている、別に専業主婦でも暮らせるが自由にさせてやるのも夫の甲斐性だという態度だった。

 それを素敵な旦那さんで羨ましいと女性陣が言ってくる事に、自尊心が満たされた。


「好きにさせてやってるんだから、家の事はちゃんとしてくれよ」


 ふとそう言った時、妻が驚いたように振り返って何度も瞬きした事に彼は驚いた。

 そんなに驚く事を言っただろうかと思ったところで、妻はいつものようにふにゃりと笑った。

 わかっている、ありがとう。

 そう言われて彼はそうかと言うしか、できなかった。


 なぜだか、妻が浮かべた表情が、忘れられなかった。


 彼と妻の間には、娘と息子が一人ずつ。

 なかなかモデル的な家族だったと彼は思う。

 子供たちがまだ幼い頃、ちょうど仕事が忙しくてあまりかまってやれなかったのはとても申し訳ないと思ったが、それもこれも家族を養うためなのだと子育ては妻に任せっきりだった。

 娘が中学生になると、反抗期がやってきて家の中はぎすぎすした。

「お母さんがそんなだから……!!」

 帰ってきて早々そんな声が聞こえて、思わず母さんにひどい事を言うんじゃないと娘を叱りとばした。

 娘はあんたのせいだ、ととっとと自分の部屋に逃げて行った。

 

「お前の育て方が悪かったんじゃないのか」


「……ごめんなさい」


「ああ、いや」


 謝らせたかったわけじゃなかった。

 仕事をして疲れて帰ってきたというのに、この空気はうんざりだった。


 反抗期の娘と、どうしてよいのか顔色を窺ってばかりの息子。

 家庭を守るべき妻は働く事と家庭の事で疲れているのか、精彩を欠いていてそれがまた陰気臭い雰囲気を作っているのだと彼は思った。


(全然休めない)


 そう思って、家に帰る時間を減らした。

 責任から逃げているのではなく、家族のために自分も休息をとらなければ仕事ができないと判断したつもりだった。


 しばらくすると、娘の反抗期も落ち着いたようだった。

 気まずいのか、自分とあまり会話をしようとしない姿に少しいら立ちと寂しさを覚えたが、それも成長だろうと呑み込んだ。


「あの子もちゃんと、あなたが愛してくれている事を理解していますよ」


「そうか」


 少しくたびれた妻が、笑う姿にほっとした。

 重ねた年齢が皺となって妻の顔にあるのが、歩んできた年月なのだと思うと不思議な気もした。


「お前ももう少し身だしなみを気を付けたらどうだ」


「……あまり服とか化粧に興味がなくて……」


「だとしても、あの子たちが肩身の狭い思いをするだろう」


「そうね……気を付けるわ」


 困ったように笑う妻だが、それなりに着飾ればきっと似合うだろうと彼は知っていた。

 だから言った言葉だったが、妻はあまり歓迎していないようでそれに対していら立ちを覚え、それ以上何かいう事もなくさっさと寝室に行って、眠った。

 会話は、年々減っていた気がする。


 妻は、よくできた妻だと彼は思う。

 亭主関白を地で行くような男に笑って従ってくれる。

 何かを言う前に大体の事を察し、家事もしっかりこなしてくれる。


 実家の母親はあまり料理が得意ではなかったが、彼女は全く違った。

 母と違う味付けだななんて言ってしまって失言だったと気づいても、妻は笑って流してくれた。

 気まずさを払拭するように黙々と食べて、お代わりをした。

 旨いから食べる、それを実行する事で伝わると信じていた。


 息子が、大学進学と同時に家を出た。

 娘はとっくに嫁に行っていた。


「二人になっちまったなあ」


「そうですね」


「……おれが定年退職したら、どこかに行くか」


「まあ本当? 嬉しいわ!」


 仕事を無くしたら、自分には妻しか残らない。そう気が付いた彼は少しばかり家庭を顧みない自分に、呆れた。だが稼いで家計を支えていたのだから、仕方がないと思った。

 だからせめて、定年退職したならば妻ともう少しだけ共に過ごす時間を持とうと考えた。嫌がっていない姿に、ほっとしたのは内緒だ。


 どこに連れていくか。

 とはいえ、どうせ妻は高いものより安いもので、甘いものを好むんだろう。

 なにせ安上がりな女だから。


 そんな風に思っていつものようにケーキを買って帰ると、妻が倒れていた。

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