3 知沙ちゃんと公園で
その日、私は五限目の途中まで寝てしまったらしい。目を開けると隣に知沙ちゃんがいて、いつも通り読書していて、反対側のソファには女の先生が同じく読書をしていた。
昨日のぺちゃぺちゃ喋る先生じゃなくて、最近この教室にくるようになった先生。
「起きたね、よく寝てた」
私が起きたのに気付いた先生は、静かに笑いながら、それだけを言った。若い先生なのだけど落ち着いていて、胸まである黒いストレートな髪が素敵で、私たちは静御前と呼んでいる。たまに略して静先生。本当の名前は八橋先生だけどね。
「今、読書の時間にしているのだけど、美佐さんもそれでいい?」
「あ、はい」
静御前の前だと私はなぜだか身が引き締まる感じになる。言葉も敬語になるし、軽い気持ちで話したりもできない。だけど、不快ではないんだ。なんていったらいいんだろう。大人の女性と一緒にいる気分になる。
私はもぞもぞと体勢を整えて、ローテーブルに置いてある本を適当に拾った。
いつもはティーン雑誌を読むけれど、静御前の前だとなんとなく、ね。
しばらく読むともなしに本を開きながら眺めていると、終了のチャイムが鳴った。
すぐに掃除の音楽が流れ出す。静御前は熊ちゃん先生を待って入れ替わりに教室を去っていった。ありがとうございました、と見送る熊ちゃん先生の眉尻が下がっていて、男の人は大人になっても美人に弱いんだな、と分かる。
「先生、しず……八橋先生、美人ですよね」
「だなぁ。なかなかあんな美人系の人はこの職業にはいない」
「「おおー」」
熊ちゃん先生の本音っぽい返事に知沙ちゃんと顔を見合わせてニマニマする。
「いいね、先生、告白しちゃえば?」
「そうそう、いけるかも?」
「いや、眼福、眼福。花は愛でてこその花」
「「なにそれ」」
熊ちゃん先生の言ってる言葉の意味は分からないけれど、なんとなくかわされたのは分かる。つまんないねー、知沙ちゃん、そだねー、美佐ちゃん、と言い合いながら衝立の向こうで制服から体操服に着替える。
私たちのセーラー服の下には常に体操服とジャージ、ハーフパンツを着ていて制服脱ぐだけで掃除用の着替えは完了。普段もスカートがめくれたとしてもハーフパンツしか見えない安心設計になっている。
私たちが着替えている間に熊ちゃん先生は机を後ろに寄せてくれている。
私たちは順番に、今日はほうき、今日は黒板を消す係とくるくる二人で代わりばんこに掃除をしていく。でも。
知沙ちゃんが居なくなったら、私が全部やるのかな。
細かなプリズムが舞う視線の先に、小柄な知沙ちゃんがようかん台に乗りながら背伸びをして黒板を消している。左右に揺れるツインテールが眩しい。
卒業式が終わって終了式がきちゃったら、もう、この教室には来ないの?
知沙ちゃん……
「おーい、手が止まってるぞー」
「もう、熊ちゃん先生っ あっ」
しまった。普段呼びが出てしまった。
そろ……と後ろを振り向くと、よい顔をした熊ちゃん先生が笑って、美佐、机と教卓、お前だけで運ぶの決定な、とサムズアップをしていた。
「なんでー! ひどいよ、神山先生!」
「今更取りつくろっても無駄だぞ、今野美佐」
フルネーム呼びやめて下さいっと怒って言うと、熊ちゃん先生は極太の両手を頬にあてて、あだ名呼びやめて下さいっ、と野太い声で可愛さアピールして言い返してきた。きもいっ!
帰りの会をして、明日から卒業式の練習、始まるからな、制服きちっとしてこいよ、なんて熊ちゃん先生が先生らしい事をいって、さよならをする。
私は知沙ちゃんと二人、下駄箱で運動靴に変えた。本当は芸術部に入っているけれど、私たちは行っても行かなくてもいいと言われている。
いろんな先生が、いつも選択肢を出してくれる。
無理しないように。
あなたの、あなた達の気持ち次第で動いていいって。
でも、本当はこっちに行ってほしい、というのが、私たちには敏感に分かる。
分かって、行ける時もあるし、どうしても行けない時もある。
一年生の時は無理をして泣いた事もある。
それからは無理しないってきめて、二年生はゆるゆると生きてきたのに。
先生は、私たちを待ってはくれない。
熊ちゃん先生はそれでも待ってくれている方だと思う。熊ちゃん先生は他の先生と違って意思を見せない。じっと、私が答えるまで待っていてくれる。
だからたぶん、私たちの担任なんだと思う。
「美佐ちゃん」
はっと顔を上げた。
いつのまにか自分の考えの中に入り込んでしまっていた。知沙ちゃんが、心配そうに横から覗いている。
「ごめん、知沙ちゃん。ちょっと考え事してて……黙ったままだったね、ごめん」
もう大丈夫だよ、って意味でにっこり笑って言うと、知沙ちゃんは、ん、と言葉少なげに応えて、ちょっと寄り道しよう、美佐ちゃん、と知沙ちゃんは珍しく強く言った。
****
私たちが帰る時、まだ日はたっぷりと満ちていて、小さな児童公園には幼稚園のお迎えの帰りに寄ったような子達がきゃあきゃあと走り回っていた。お母さん達が片手に幼稚園バッグを持ちながらにこやかに話している。
私たちはフェンスにそって端を歩きながら、遊びに来ている人たちから一番遠くのベンチに座った。
話を聞かれたくない、というのもあるけれど、集団がこわいのだ。
別に見られている訳でもない、そう、思っているはいるのだけど、さりげなくこちらを見ている気がして、その意味のない目がこわい。
見ていないようで、なぞるように視界の中に確保される自分を想像して、肌が粟立つ。
私たちは、そんな想いを持っている。
知沙ちゃんも、私も、その想いは同じだと思っていたのに。
「美佐ちゃん、大丈夫?」
私の今の状態が手に取るように分かる知沙ちゃんは、心配そうに顔を覗き込んでくれた。
むやみに身体を触ることもしないから、本当にありがたい。
この状態で背中とか腕とか心配そうに撫でられたら、悲鳴を上げてしまう。
逃げ出したい気持ちをなんとか抑えて、知沙ちゃんに顔を向ける。
「知沙ちゃん、いつから平気になったの?」
こちらを心配する余裕のある知沙ちゃんは、私よりもひどかったはずだ。クラスや体育館での全校集会で誰よりも人との距離を取っていた。辛いと言って私の影に隠れていた事もあったのに。
知沙ちゃんはにこりと笑って、平気じゃないよ、と静かな声で言った。ボタンを外して見せてくれた腕は、鳥の皮のように寒々とおうとつが浮き上がっていた。