2 熊ちゃん先生
「おーい、美佐。給食取りに来ないと冷めちゃうぞ」
私たちのこの教室の担任、神山先生が痺れを切らして私を呼びにきた。神山先生は熊みたいな先生。ぱっと見こわいのに、笑うと可愛い。いっつもジャージを着ているこの大きな先生を、私たちは熊ちゃん先生、と密かに呼んでいる。
「やです、持ってきて下さい」
突っ立ったままそれだけ言うと、衝立の向こうからちらっと私の顔を見た熊ちゃん先生は、しょーのないお嬢さまだなぁと大げさにため息をついていった。
「まー、しゃあねぇなぁ。よし。持ってきてやるから、机用意しろよ」
「今日は先生なの?」
「いつも先生と食べているじゃねぇか」
「昨日は違ったもん」
「そりゃ出張だったから仕方ねぇだろうよ。なんだよさみしんぼだなぁ」
「知沙ちゃんが居れば別にどの先生でもいいけど」
「まぁなぁ。ほら、机の用意。持ってきてやるから」
「はぁい」
私は熊ちゃん先生に急かされてのろのろと動きだす。
本当なら白い割烹着を着て給食の準備をするのだけど、ここの教室は二人しか居ないから、いつも職員室の先生が準備をしてくれるんだ。私たちは持ってくるだけ。でも、配膳の前に机の消毒を自分たちでしなければならない。
知沙ちゃんと私の机をいつも通り対面になるようにくっつけて、廊下に並んでいる水場で消毒用のバケツに少しだけ水と液を入れて雑巾を浸していると、いい匂いを漂わせて熊ちゃん先生がもう給食を持ってきてくれた。
「早く、早く、腹へった」
「ちょっと待ってください、先生子供みたい」
「早く、早く、冷めちゃうぞ、あ、もっと絞ってな、女子力高めろよな」
これぐらいでいいか、と適当に絞った雑巾を見られてちくりと声をかけてくるのがイラッとする。けど、熊ちゃん先生は正しくて……やっぱりイラッとする。
これでもかと絞って机を拭くと、美佐、ありがとなぁ、と片付けにいく背中に声をかけられた。
ぽいっとバケツに雑巾を入れながら、熊ちゃん先生め、とほくそ笑んでしまう。熊ちゃん先生の名前呼びお礼攻撃に、私は弱い。イラっとしてても、いつも笑ってしまう。本心から言ってるのが分かるから。
教室に戻ると熊ちゃん先生は知沙ちゃんのサイズに合わせた椅子に、はみ出しそうになりながら座っていた。私が席に着くのを待って手を合わせてくれる。
「手を合わせください」
「合わせました」
「「いただきます」」
野太い声と私の声が混ざりあって、声の質があまりに離れすぎて変な感じだった。
お昼の放送を食べながら聞き、しばらく二人で黙って食べる。
給食の時間って短い。もぐもぐがゆっくりな私は結構最初に黙って食べないと時間内に食べ終わらないのだ。
熊ちゃん先生は私の食べ方を分かっているからありがたい。昨日一緒に食べた女の先生は食事中は楽しく話さなきゃ、と思っているのかいろんな事を喋ってきて、質問もされるから答えていたら時間がなくなってしまった。
最後の五分、早く、とか、がんばって時間までに食べようね、とか。拷問のように食べた。
そういうの、しんどい。
「昨日昼放課まで食べてたんだって?」
私の給食が半分ぐらいになったのを見計らって熊ちゃん先生が聞いてきた。
「昨日の先生、めっちゃ喋ってきて食べる時間なくなったんだよ? 仕方なくない?」
「美佐と仲良くなりたかったんだよ。美佐も食べるの遅いから先に食べさせて下さいって言うといいなぁ」
「そんな口はさめない感じだったもん」
「まぁな。まぁ、おいおいだ」
熊ちゃん先生は大きな目を柔らかく細めてそう言うと、また食事に集中しだした。私もつられて食べる。今日のメニューは、ごはんと中華風スープと肉団子とごまだれサラダ。私はスープがないと食べ難くて遅くなるから、今日はラッキーメニュー。
「美佐、四月からはどうするんだ?」
あんまり話さなかったから時間に余裕をもって食べれて満足していると、熊ちゃん先生がさり気なく聞いてきた。
私たちは四月から中三になる。この教室は普通クラスに行きにくい子がゆっくりと勉強する教室。
来年度もこの教室中心でいくのか、メインこっちでサブ的に普通教室にも入っていくか、将来的な事も考えて二年生の間に決めてほしい、と二月の三者面談で言われた。
知沙ちゃんとは、私たち普通クラスに入るのなんて無理だよね、なんてずっと言ってたのに。
二学期の保護者会の後から知沙ちゃんは少しずつこの教室を離れる事が多くなってきた。給食をクラスで食べたり、体育とか音楽とかもクラスに入ってやったり。
私も音楽は行けるけど、体育とか、むり。動きが遅いし、一人はみ出し者が居ると連帯責任でみんなに迷惑がかかるし。
知沙ちゃんは何だかんだ可愛いからいろんな子から声がかかるけど、私にはそんな声、かからないし。
「べつに、普通」
「普通って?」
「いつも通りでいい」
そっか、と熊ちゃん先生は柔らかく微笑んだ。って、そんな顔も強面なんだけどね。でも目が優しかったからたぶん、熊ちゃん先生はどんな答えでもよかったんだと思う。
「美佐はそれでいいとして、知沙はたぶん戻るぞ? それでもいいか?」
「いいって、それは私が決める事じゃない」
「かぁ、ここにきて大人発言だもんなぁ、おじさんは参っちまうよ」
「なにそれ」
私が茶化すようにうそぶくと、熊ちゃん先生は頭をぐしゃぐしゃとかきながらあの優しい目を真剣な眼に変えていった。
「知沙が普通クラスに戻ったら、ここはお前だけになるって事。ちゃんと、覚悟しておけよ」
「……」
黙った私に、熊ちゃん先生は苦笑して手を伸ばしかけたけれど、ダメだったんだった、と引っ込めた。
「女子生徒に不用意に触らない事。へいへい、先生もつれぇわ。給食は片付けといてやるよ、今日は特別サービスだなぁ」
熊ちゃん先生はそう言うと席を立った。後でちゃんと机拭いておけよ、と言うのを忘れないのが、普段すごいフランクだけど、やっぱり先生。
私は席を立ってソファの方に座った。スリッパを脱いで身体を丸め、私には大きな一人掛けのソファの上で丸くなる。寒さ対策の膝掛けを肩まで上げた。
窓からは松の木が見えて、その先にグラウンドがあるのだけど、埋もれるように座っているから今は空しか見えない。
「ひとりで大丈夫な訳、ないじゃん……」
こぼれた本音を聞く人は居ない。
知沙ちゃんは最近、昼放課もクラスでいる事も多くなってきた。
この誰かを待つ時間が長すぎて、私は目を閉じる。
上の階の喧騒が遠くなるように、丸まって。