こだわり
せっかくに休日である今日に、遠くまで運転しようと思い立ったのは、昨日のことだった。朝食を食べながら眺めていた観光地の記事には、先日客先とのちょっとした雑談で話に上がった名所の谷が載っていた。残念ながらそこには行ったことがまだありませんね、聞いたことはあるのですがね。いつもの客先で、普段のように適当に客の話を聞いていた僕が、さして考えもせずにそう素直に言うと。僕と同じく初老に差し掛かった男性客は、随分と精力的にその名所の魅力を語りだした。どうやら男性客は大の観光好きでなかでも景勝地が特に好きらしかった。ヒートアップする男性客の話に反して、だんだん困惑気味になる僕の気持ちが顔に出ていたのか、やがてわざとらしい咳ばらいをすると。まあとにかく絶対に貴方も一度は行ったほうがいいですよ、車ならさほど遠い訳でもありませんからね。そう言って話を急に終いにしたのだから、その時は内心で化かされたような気分だったの覚えている。普段、客の男性は商談最中でも瞼が動かないことが珍しくなかった。
そんな形で男性客の珍しい一面を見たせいか、その名所に出掛ける気になり朝早くから、こうして車を運転していた。初めはつまらない郊外の景色であったが、高速をしばらく走ると随分と景観の良い道に変わっていき、普段の生活では見ないような光景を目にして、思わず気分が弾んできた。もともと車好きだったのもあるが運転してこれほど爽快なのは久しぶりだった。若い頃は、まあそれなりの車好きで自分の車で遠出するのが随分と楽しみだった気がする。大抵帰り着くころには運転に疲れてヘトヘトになったものだがそれでも楽しかった。なんでだろうか。
目的地である名所の谷までの道は、景色の良さで有名なドライブコースでもあった。ド田舎といっていいような土地だが何台も車が走っている。僕の前には若者向けの黄色のコンパクトカーが走っていた。バックミラーには若い男の姿が写っていた、若い頃は似たような車で、休みの度にああしてハンドルを握って遠出したもんだけど、今も似たようなものかなと勝手な感想を抱いた。そうだったな、無性にハンドル握って何処か遠くに行きたかったのを思い出す。あの頃の僕は、自由にどこかへ行きたかったんだ―自分の力だけで。
そういうものなのだろうなと、観光地へ足を運び続けたであろう男性客のこだわりの訳をわかったような気になった。突如として僕の全身に衝撃が襲った。少し気を失っていたらしい、目をさますとエアーバッグが僕を包んでいた。事故だった。まだあちこちが痛む体にむち打ち、車から抜け出す。事故は僕の車とその前の3台が玉づきになったらしい。玉突きにも関わらず、最近の車はよく出来ているらしく黄色のコンパクトカーの持ち主と思しき、まだ学生のような男は無事だった。良かったと心から思った。先頭のミニバンも載っていた家族はみな無事なようだった。これもまた良かった。
しばらくすると警察が来た、色々聞かれたが素直に答えた。年を食っているとは言え、今時の車は全自動運転補助が付いているのがほとんどだから、ボケて間違えることはまずない。メーカーの口上通りならば、全自動で前の急停車に対応できるはずだった。案の定、僕の聞き取りを終えた警官は―そりゃ、ついてませんでしたね―と被害者扱いだった。事故事態は動物か何かが前を横切って、先頭のミニバンが急ブレーキを掛けた際に挙動がどうもおかしかったのが原因らしい。制御トラブルじゃないか、現場検証の警官がそう教えてくれた。自動制御も良し悪しらしい。
一段落つくと事故現場は車道しか無いため、ひとまず最寄りの警察署までパトカーで送ってもらうことになった。パトカーに乗り込むと自分と似たような年頃の、運転席の交通課警官が話かけてきた。いやねぇ、誰が悪いってわけでもないような事故で…まあ、怪我人が無くて良かったですよ。愛車を壊され思うところも無いわけではないが、そこまで捻くれていない僕も本当にそう思うと返すと、気分を良くした警官は、続けていった。
「かわいそうに、あの若いのは初めてのマイカーだったみたいでねぇ。車好きでわざわざのマニュアル選んだってよ。マニュアルじゃ全自動運転もつけられないのに、本当に今時珍しい」
心から警官が若者をそう思っているのは、その場に残る若者を見る目でわかった。
「本当にかわいそうに」
走り出す車の中で、腕を組みながら警官は繰り返し呟いた。