プロローグ
暗闇の中、イヴァンは目覚めた。
今日は祝の日。いつもの何倍ものパン生地をこねる為、下っ端であるイヴァンは同室の皆を起こさない様のっそりと身支度し仕事場へ急ぐ。
一心不乱に作業を行い、生地を発酵させる。いつもはここで一息つくが、今日はまだまだ作らなくてはいけない。次の生地を作るための準備をしていく。
井戸水を汲みに外へ出ると、空は白み始めている。雲ひとつない空は陽の光により紫がかり、だんだんと明るくなっていく。今日にふさわしい快晴を予感し、慌てて調理場へ駆ける。
忙しい一日は始まったばかりだ。
***
マイサは人生最高の幸福を味わっていた。
まあるくて、白くて、ほんのり小麦の甘味、そして、ふわふわなのだ。
ふわふわなのだ。
マイサがふだん口にするのは、固い黒パンだ。皮ごと挽くので粒子が粗く一度に焼き保存する為、スープや、貯蓄が乏しくなれば水につけ柔らかくしながらでなくては歯が立たないぐらい固い。
だが、このパンはどうだろう。
まるで赤ん坊の頬のように柔らかくなめらか。一口、噛みしめるたびに天へ上る気持だった。
幸せなひと時は無情にも過ぎ去り、マイサは最後の一口を飲み込むと隣の母へ話しかけた。
「母さん、すごくおいしいパンだったわ!こんなにおいしいパンは初めて!こんな田舎村で結婚式をするお姫様はきっとやさしい人ね!」
「落ち着きなさい、マイサ。でも、本当ね。都会の大聖堂じゃなくて、こんな田舎の教会を選ばれるなんてね。」
興奮冷めやらぬマイサをたしなめつつ、母も不思議な様子だ。
「でも、ここの教会、こんなにきれいなのね!いつも遠くからしか見ないから、知らなかったわ。ステンドグラスがキラキラしてる。」
「嬢ちゃん、知らないのかい?ここは前領主様の屋敷がちかいから作られた教会なんだ。きれいで当り前だろう!きょう結婚する貴族のお姫様はここの野原や森の景色が好きなんだと。」
「そうなんだ!教えてくれてありがとう。田舎の景色が好きなんて、うんとやさしいんだろうなぁ。」
マイサの住む村よりも教会に近い村の住人なのだろう。陽気な男が通りぎわに教えてくれた。
式のおふれに、祝福の訪れたものには食事や酒が振舞われるとあったため、近隣住民や、馬でも片道三時間かけて町からくるものまでいた。
料理にも限りがあり、身なりのいいものが自然と教会の近くへ行き、マイサたち農民は人だかりの端の方で何とか回ってきたパンを食べたところだった。それでも、マイサにとって衝撃と幸福を与えてくれたそのパンを食べられただけで、一時間歩いて来たかいがあったといものだ。
***
教会の鐘が鳴る。
新郎と花嫁が表に出てきた。マイサからは遠く、よく見えないが思わず歓声を上げた。
白い服の男の後ろへ撫でつけた髪は黒く、翡翠色の瞳がよく映えている。
花嫁の髪はレンガのような、深くおちついた色味の赤毛。太陽に光を受け、きらきらと輝いている。
青い空、白い雲、素朴な農村の領民たちが、彼らを祝福していた。