或いは絶望さえも知らない世界
粗末な物置小屋で、少年はゆっくりと目を開けた。
数回瞬きをして、もぞもぞ気怠げに身を起こす。ふるりと小さく体が震え、毛布代わりに巻いていた襤褸布が、汚れた床に音もなく落ちた。
窓の隙間から見上げれば、早朝の母屋からは既に細い煙が上がっていた。
もう少し起きるのが遅ければ、使用人か里長の怒声が飛んできたところだろう。そう思って、彼は足早に小屋を出る。
抜け切らない疲労が足を鈍らせたが、一日の仕事は待ってくれない。麦一袋と引き換えに買われてきた幼い孤児など、気遣ってくれるような家人はいなかった。
少年が寝泊まりしている古い木製の小屋は、日差しも入るが隙間風も侵入する。本格的に寒くなる前に穴を塞ぐための布を拾ってこなければならないだろうと、疲労と気鬱にぼんやりする頭で考えた。
――少なくとも、誰かに頼む気はしないな。
自嘲するでもなくそう思って、彼は冷えた感情のまま目を伏せる。
この里に来てからずっと、そしてその前からも、はいと申し訳ありません以外の言葉をほとんど口にしていなかった。滅多に使われない錆びた喉が、いつも冷たい目で見下ろしてくる大人たちの前でまともに動いてくれるとは思えない。
――寒くなったら、冷えに効く薬湯を貰えるだろうか。
ふとそんな思考が頭を過り、少年は無言で首を傾げた。
おかしな話だ。自分に薬湯を作ってくれるような人間など、今まで誰もいなかった。病気になっても、精々水を与えられ、一人で小屋に押し込められるだけで。
両親の記憶すらない自分に、優しい記憶などありはしない。
疲労の余り無意識に甘える対象でも欲しているのだろうかと考えながら、奇妙な違和感を振り払うように、足音を潜めて母屋へ踏み込んだ。
忙しい厨に顔を出すと、火の番をしていた使用人から、開口一番ぐずぐずするなと怒鳴られた。
申し訳ありませんと頭を下げて、重い体を引きずるように、言い付けられた家畜小屋の掃除へ向かう。その後僅かな朝食を食べてから、薪を拾いに森へ出た。
日によってこれが水汲みになったり母屋の掃除になったり道具の手入れになったりするが、山中を歩かねばならない用事は大抵彼が任されることになっている。
乾いた枝を選んで拾いながら、少年は何とはなしに上を見上げた。鈴生りにぶら下がった小さな赤い木の実が空腹の意識に入ったが、黒い線の入ったそれが食用に足るものなのか分からずに二の足を踏んだ。
高く細い枝まで登る自信も無いし、そうまでして手に入れた木の実が毒であったら目も当てられない。持って帰って聞いたとて、食べられる実なら家人が残らず取り上げるだろう。
痩せて力のない己の手を見下ろして、やめておこうと溜息をつく。
――こんな時、××がいれば。
そう思いかけて眉を寄せる。朝にも覚えた錯覚が再び思考に芽生えた気がして、彼はまた首を傾げた。
何となく、自分に知識をくれる誰かがいたような気がした。
単調な薪拾いの合間に、色々な話をしてくれる人。役に立つ話も下らない話も、明るい声で喋り立てて、笑った誰かがいた気がする。
髪を掻き回す細い手を、額に触れる暖かい感触を。
体も記憶も知らないのに、瞳が勝手に探していた。
「…………、」
作業をする手を止めると、しん、と静かな森の空気が意識に障る。
けれど、どれほど気配を探ったところで、自分以外の誰かなど居るわけがない。
――さくさくと草を踏む、小さな軽い足音も。
――負の感情を見せたことのない、鳥のそれに似た高い声も。
ぱちり、と長い睫を瞬いて、見上げた木々の葉の向こう。
逆さまに顔を出してくる剽げた人の顔なんて、自分は知らないはずなのに。
おはようございます、や、こんにちは、を。
口にしない一日をおかしいと、思ってしまったのは何故だろう。
――何だか急に息が苦しくなった気がして、彼はぎゅっと唇を噛み締めた。
胸の真ん中にぽっかりと穴が空いているように思えて、自分がどこに立っているのかすら分からなくなる。
空っぽの手のひらが寂しい。誰もいない隣の空間が哀しい。
明るい陽光が目を射して、一瞬意識が白く眩んだ。
※※※
――ゆさゆさと体を揺らされて、少年はゆっくりと瞼をこじ開けた。
服越しにも分かる高い体温に続いて、視界に映ったのは明るい灰色の瞳。
一瞬その人が誰だったか思い出せなくて、彼は無表情で目を瞬いた。
「あ、起きた? おはよー」
そんな少年の様子には気付かず、少しだけ年上のその少女は呑気に挨拶をしてくる。愛嬌ありげに少し垂れた目が、笑みの形に弧を描いた。
木々の間から射し込む日差しと、草の感触と緑の匂い。
数拍置いて自らの現状を思い出し、少年はごしごしと目を擦りながら身を起こした。
「……おはようございます。僕、寝てましたか?」
「そう。薬草採りに来てみたらキミが転がってるから驚いたよ。すっごい顰めっ面で寝てたけど、よっぽど疲れてたの?」
ぽふぽふと頭を撫でながら、少女がしょうがないなあという風に苦笑する。温かいその手を振り払う気にもなれずに、少年は首を横に振った。
「……いいえ。ただ少し……嫌な夢を見ただけですよ」
曖昧に答えて立ち上がり、土汚れを軽く払う。
何だか、酷い夢を見た気がする。
無意識にさすった二の腕は、いつもより体温が低いように思えた。背筋に残る奇妙な寒気と不快感に唇を軽く噛みながら、彼は頭をふるりと振る。
放り出されていた薪束を拾おうと、少女に背を向けて二、三歩離れた彼の背中を、少女の声が追いかけてきた。
「へえ、どんな夢? 悪い夢は人に話すと現実にならないって言うよ」
「いえ、良いんです。……もう忘れてしまいましたから」
嘘ではなかった。少女の顔を見てから、夢の記憶は急速に薄れつつあった。
そうだ、思い出す必要なんて無い。わざわざ人に聞かせなくたって、正夢になんてなり得ない。だって彼女は、こうして自分の傍にいるのだから。
「――ほんとうに?」
ぽつりと囁くような声が聞こえて、丁度薪束を抱え上げたところだった少年は怪訝そうに瞬きをした。
「……どういう意味ですか? それよりあなたは、」
振り返ったそこに、少女の姿は無かった。
風もない木々の間を、明るい日の光だけが縫うように射し込んでいた。
ほんの一瞬、少年の呼吸が停止する。見開いた枯れ葉色の瞳が、無表情のまま凍り付いた。
「――」
無意識に口が開く。彼女に呼びかけようとした舌が、彼女をいつも何と呼んでいたのか思い出せずに固まった。
「――あ、」
がらがらと、薪が腕から滑り落ちる。鬱蒼とした茂みも見上げた木々もカサリとも言わないままで、その向こうに誰の存在もないことを示していた。
「――どうして」
茫然と零れ落ちた呟きに、応える者は誰もいない。ままならない記憶と思考が見る見る白に蝕まれていくのを悟って、彼は冷たいものが背中を駆け上っていくのを感じた。
ついさっきまでそこにあったはずの声が、笑顔が、思い出せなくなっていく。彼女の存在が曖昧になる。彼女なんていう人間が、本当に存在したのか分からなくなる。
「――……いたい」
ふらついた足が後退って、数本の薪を蹴り飛ばす。
ぎり、と軋んだ胸を押さえて、呻くようにぽつりと呟いた。
壊れそうなほど脈打つ心臓が、引き絞られるように強く痛む。二度と収まらない痛みであることを、心の何処かで知っていた。
誰もいない空間から目を逸らせないまま、彼は胸元を掴む手に力を込める。
引きつるように顔が歪み、唇が戦慄いた。がたがた震え出す体が、勝手に里へと踵を返した。
よろめくように森を駆け抜け、里に戻ってくると、里人の何人かが怪訝そうに視線を向けてきた。
その全てを無視して、里の外れの小屋へ走る。
里で唯一の薬師が使っている、粗末な小屋。罅割れた一枚戸を叩き付けるように開け、飛び込んだそこは、何年も無人であることを示すように、分厚い埃が積もっていた。
――耳をつんざく悲痛な絶叫の主が自分自身であることに、少し遅れて気が付いた。
※※※
盛大な音を立てて開け放たれた自宅の戸に、少女はぎょっとして飛び起きた。
「な、なになになに、地震雷火事オヤジ!? 敵襲かァァァァァ!?」
明け方前の夢現。強制的に微睡みから引き戻された少女は、状況が分からずひたすら叫びながら視線をあちこち彷徨わせる。
しかし混乱のあまり目を白黒させている少女へと、ボロ小屋の戸を砕かん勢いで飛び込んできた少年は、突進するように抱き付いた。
ぐえぇっ、と情けない悲鳴が上がる。それに構わずぐりぐり腹に頭を押し付けながら、整った顔立ちを蒼白にさせていた少年はようやく深く息をついた。
「……どうしたのさ、こんな時間に。怖い夢でも見た?」
げほげほ咳き込みながらもしばらく好きにさせていた少女は、離れる様子のない少年に、やがて溜息を吐きながらそう問うた。
縋るように己へとしがみつく少年は、普段と違って冷静さが窺えない。小さく腕が震えていることを、数拍置いて感じ取った。
尚もぎゅうぎゅうと彼女を抱き締めた少年は、ややあってそっと顔を上げ、上目遣いに彼女を見る。
「……、……別に、何でもありません」
「嘘つけ、オイ」
ビシッと手刀を落とした後に、その手で頭をさすさす撫でる。気遣うようなその仕草に、少年は再び彼女の腹に顔を埋めた。
――碌でもない夢を見た。
思い出したくもない記憶を漁って、少年は体を震わせる。
そこは、彼女がいない世界だった。彼女が存在しない世界だった。
――今日も明日も変わらない、ただただ恐ろしいまでに空っぽな世界だった。
目の前にいたはずの彼女の、その記憶すら自分の中から消えてしまった時の、あの絶望的な虚無感を覚えている。
いつもの物置小屋で目が覚めて、自分の状況を思い出すまでには数十秒が必要だった。
そのまま得体の知れない焦燥感に急き立てられるようにして少女の小屋に駆け込むまで、正直気が気ではなかったのだ。
(……ちゃんと居てくれて、良かった)
――魂の底から凍えるような、鳥肌立つほどのあの恐怖を、現実に味わうなど絶対に御免だった。
もしも彼女が朝採りの薬草でも採取に出かけていたのなら、無人の小屋を前にした自分は発狂したように駆けずり回って彼女を探していた自信がある。そうならなくて良かったと思える程度には、今の自分には理性があるけれど。
(……ちゃんと彼女が存在していてくれて、良かった)
何も言わずに頭を撫で続けてくれる少女の手を感じながら、少年はそっと目を伏せる。
本気の怒りなど見たことがないほど、いつも呑気な少女だった。鬱陶しいほど朗らかで、異様なほどにお人好しで、そして歪な少女だった。
――けれど、そんな奇妙な少女を今更自分から切り離すなんて、とうにできなくなっていたのだ。
喧しくても、歪でも。彼女がいない世界を想像できないくらいに、彼女はもう、少年の中に食い込んでしまっていた。
切り離すことは出来ない。出来るはずがない。そんな己の心臓を抉るに等しい行為を、もしも実行してしまったら、後に残るのはきっと自分ではなく、空っぽになった抜け殻だけだ。
(……僕が誰かに執着するなんて、以前の僕が聞けば絶対に信じなかったでしょうけど)
――けれど、もう無理だ。
優しくされてしまった。幸せだと思ってしまった。彼女のいなくなった世界で、自分の胸の真ん中に空いた穴を、とうとう自覚させられてしまった。
あの色のない世界で今の自分が生きていけると、最早少年は思わない。
彼女無き自分に意味は無く、彼女無き世界に価値は無い。
そう気付いたことが幸せなのか、彼には分からないけれど。
「キミって、実は私に劣らずマイペースだよね……」
結局まともな答えを返そうとしない彼に、少女は事情聴取を諦めたようだった。
彼女は溜息一つで少年の体を抱き返し、そして全ての思考を放棄する。
「……特に用事がないなら、このまま寝ていきなよ。作ったばっかの腹痛の薬があるから、帰る時に里長に持っていってね」
「……はい」
薬師の所へ薬を受け取りに行っていたと言われれば、里長たちも無断外出を咎めにくいだろう。
少女の手が薄っぺらな毛布を掛けてくるのを感じながら、ようやく戻ってきた穏やかな眠気に、少年はとろとろと目を閉じた。
彼女の腕は離れない。きっとこの場所でだけは、悪い夢は見ないだろう。
自分を抱え込む少女が、ふあ、と眠そうに欠伸をしたのが分かって、抱き締める腕に力を込めた。
悪夢から覚めたと思ったらまだ悪夢の中だったっていうのは、体験したらかなりメンタルが磨り減ると思う。