7:世界の終わりで、君の名前を叫んでいた
乾いた息を吐き出す喉が焼けるように痛かった。今にも崩折れそうな膝が、瀕死の鹿みたいにがくがく震える。
それでも地面を踏み締めて、歩き慣れた山の中を駆け抜けた。這ってでも行くつもりだったけれど、一度倒れたら起き上がる自信はなかったから。
葉や枝が肌を傷付けるのも構わず走り抜ける。
茂みを抜けて里の中へ飛び込んだと同時に、少年は足が縺れて膝をついた。
咄嗟に付いた手のひらに、傷が抉られる強い痛み。けれどそれすら気にかけずに、少年は茫然と前を見詰めた。
――七、八人の男達が、雁首揃えて広場で顔を突き合わせていた。
皆知った顔だ。里長もいる。少年によく命令する、要するに里の中でも割と上の方にいる連中だった。
彼らが揃って間抜けな顔をして、そう、まるでそこにいるはずのないものを見たような顔をして、少年の顔をぽかんと見ていた。
「――――は? 何だ、いるじゃないか」
誰かが拍子抜けしたようにそう言った。それを引き金に、彼らはがやがやと喋り始める。
「どうして居るんだ? 人に預けたと言っていたのに」
「実は相手が奴隷商だったんじゃないか? それに気付いて逃げてきたとか」
「しかし、顔見知りの行商人だと言っていたはずだ。馬で逃げたから、もう追い付けないとも」
「なら嘘だったんだろう。それなら自分で戻ってくるわけがない」
「何であんな下らない嘘ついたんだか」
「ガキの考えることは分からんね。おかしな言動の多い奴ではあったが」
「余計な手間を食ったよ。ただでさえ疲れてるっていうのに」
「お陰で薬の作り手がいなくなっちまったじゃないか」
――その赤が何なのか、最初は理解できなかった。
里人達の足元から、赤を纏った何かが覗いていた。
ぴくりともしない小さな、小さな影だ。
まだ鮮やかなその赤は少しずつ地面に流れ落ちて、土をどす黒く染めている。いつも川で洗って清潔にしていたはずの茶色い髪は、今は満遍なく土埃に汚れていた。
棒切れみたいに細い手足が、おかしな方向に折れ曲がっている。
肌に、紫や黒の痣。骨が見えている個所もあった。
唇から滴る液体は、黒みがかって汚れた赤で。
凍り付いたように動かない瞼から、濁った灰色の目が覗いていた。
――頬に、涙の跡。
腹の底から迸った絶叫は、きっとずっと意地を張って呼べなかった、彼女の名前を象っていた。
※※※
それから少年はあっという間に捕まって、白装束に着替えさせられた。
不可侵の湖の主様へ。そう言い合う里人達は、どうやら以前から少年を雨乞いの儀式に使おうと考えていたらしい。恐らくその会合の中身を、彼女は聞いてしまったのだろう。
言い伝えでは、生贄は男が多かった。尚且つ、薬師の仕事を担う彼女よりも、ただの雑用である少年の方が選ばれるのは自明の理。
だから彼女は少年を逃がしたのだ。一人しか助からないその道を、迷うことなく少年に譲って。
痛かっただろう、と少年は思う。無残な骸を整えてやることすら、少年には許されなかった。
痛いのが嫌いな人だった。少年から見ればいっそ赤子のように、痛みに弱い人だった。
少年よりずっと上手く木登りをする癖に、草で手を切ると無言で眉を下げてプルプル震えていた。「見てるだけで痛い」とブチブチ言いながら、少年のあかぎれに毎日こっそり薬を塗った。
彼女だってやっぱり「おやなし」で「みなしご」だから、扱いは普通の里人よりずっとずっと悪かったけれど、薬師は貴重だから、少年のように酷い暴力はあまり振るわれない。
そのことに、少年はひっそり安堵してもいた。あんな貧弱な人が里長の拳なんか受けたら、その衝撃だけで死んでしまうに違いない。
――そんな彼女が、自分の末路を予想しながら、どんな思いで一人里へと戻ったのだろう。
今なら分かる。彼女に叩き付けられたあの言葉は、あの時彼女が言えた精一杯の餞だった。
もしも素直に逃げろと言われたなら、少年は従わなかっただろう。
だって彼女一人置いて逃げ去るなんて出来ない程度には、少年は彼女を好いていた。そして彼女は、きちんとそれを自覚していた。
薬師の弟子として連れて行ってもらえるのは一人だけだ。どうあっても一人は残らなければならない。
そして足の悪い薬師と逃げた少年を追わせないために、彼女は里人達に嘘をつきに戻らねばならなかった。
追いかけられれば、移動距離を稼げない二人は捕まってしまう。
けれど馬で逃げたと言われたなら里人達とて、最早遠くへ逃れた子供のために無駄な労を払おうとはしないだろうから。
『――二度と戻ってきたりしたら、許さないんだから!!』
察してやれた、はずだったのに。
刃物で抉るように残酷な言葉を叫んだ彼女の灰色の瞳が、押し殺した感情に歪んでいたことなど。
まるで今にも泣き出したいのを堪えるように、ぎゅうと眉間に皺を刻んで、拳を握って、地面を踏み締めて。
あの瞬間、怖い辛いと叫ぶ彼女の心に気付いて抱き締めてやれたのは、世界中で自分ただ一人だけだったというのに。
――失せろと吠えたあの言葉は、逃げて生きろとただ願う、彼女の最後の優しさだった。
そうして少年はこれから、そんな彼女の願いすら踏み躙って殺されに行く。
里から半日の所にある、崖に面したその湖は、王宮に管理されていて直接水際には近付けない。彼女と二人、いつか見に来ようと話していた場所に、こうして自分一人が引き立ててこられるという現状が、酷く皮肉に思えてならなかった。
古の水神が棲むとされ、かつては大掛かりな儀式と共に、力ある神官を贄として捧げることもあったらしい湖は、水不足で葉や作物が枯れ落ちる中、そこだけ別世界のように美しく水を湛えて煌めいていた。
水を求める里人達の顔が飢餓を映し、地面に転がったまま手負いの獣のようなぎらぎらした双眸で自分たちを睨み続ける少年を、血走った目で見下ろした。
主様、どうか我らに恵みを。
里長の声がすると同時に、重りを付けられた少年の体が宙に浮く。小石のように投げ捨てられた少年は、そのまま崖から湖へと落ちて行った。
着水の衝撃は一瞬。白い泡と共に湖の底へと沈みながら、少年はごぼりと酸素を吐き出した。
足に括り付けられた重りが、痩せた体を勢いよく深みへ引きずり込んでゆく。溺死の苦痛に顔を歪め、それでも瞼をこじ開けた少年は、けれど次の瞬間驚愕に目を見開いた。
――巨大な竜の死骸が、湖の底に鎮座していた。
色彩までは暗くて分からない。固く瞼を閉ざしている姿は、一見すれば眠っているかのようだ。
しかし動かぬ竜の体は罅割れ、見た目には年経た彫刻のようだった。この竜が死んでから、既にかなりの年月が経過しているに違いない。
かつては勇壮に振るわれたであろう爪も牙も、今は形を崩している。背中に入った一際大きい罅の隙間から青い光が洩れ出していて、その光が竜の全貌を照らし出していた。
あれが噂に聞く竜玉だろうか、とぼんやり思う。
(――水、神)
死して尚雄大なその骸に、少年は苦痛すら忘れて瞠目する。
(本当に、いたのか)
竜や魔法というものに憧れていた彼女は、これを見たら何と言うだろう。
空駆ける美しい竜の姿を、一度でも良いから見てみたいと言っていた彼女は、あの綺麗な灰色の目を見開き、顔を輝かせて全開の笑顔で笑っただろうか。
これら「大いなるものたち」は、かつては贄を受け取ることで、その力を振るうこともあったのかも知れない。
里人達が求めていたのは、きっとこういったものが気紛れに分け与えてくれる恵みであったのだろう。
ならば、もしもこの竜が今も生きていたならば、竜は里人達の願いに応えたのだろうか。
贄とされた少年を食らって、その対価としてちっぽけな、人間にとってはとても大きな奇跡を返してくれたのだろうか。
そう思って少年は――――
――――激烈な殺意が、己の視界を灼くのを感じた。
(――――冗談じゃない……っ!)
そんなことになったら、それこそ死んでも死に切れないではないか。唯一の人を無残に殺され、自分自身は骨の髄まで利用され、それを行った人間達は自分達の命の恩恵を受けて幸せな顔で笑っているのだ。
心が激情に埋め尽くされていくのが分かる。憤怒。悔恨。懺悔。嫌悪。無念。悲嘆。空虚。軽蔑。怨恨。絶望。憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪!! 認めるものか。彼女を殺した奴らの幸せなど。自分達が、あんな外道共の未来の礎になるなどと。
目が熱い。腹が熱い。喉が熱い。体の奥で渦巻く何かが、激しく暴れて少年の皮膚を突き破ろうとしているかのようだった。
救う価値などあるものか。世界なんて碌でもないものだった。価値があるのは彼女だけだった。彼女だけが優しかった。たった一つの美しいものを、叩き壊して蹴り潰してズタズタに引き裂いたのが、少年の知る世界の形だった。
――青い光が、強くなったように感じた。
「誰が恵みなど与えてやるものか! 呪われろ! 僕と彼女を虐げた奴ら、どいつもこいつもグチャグチャになって報いを受けろ――!!!」
最後の酸素と一緒に吐き出した壮絶なまでの呪詛は、全てを失った獣の咆哮だった。見開いた瞳から一粒だけ零れた涙は、誰にも気付かれないまま水に溶けて消える。
――太陽よりも強烈な青い光が、刹那、全てを掻き消した。
※※※
大陸暦○○年××月△△日、王宮が不可侵の聖域として管理しているとある山奥の湖から、巨大な竜の姿が飛び立ったのが観測された。
青い光で構成されたその竜は辺り一帯を壊滅させ、それに留まらず天候を狂わせて未曾有の大災害を引き起こす。被害総額は莫大な額に昇り、間もなく魔術師団が出動するに至った。
団員の八割を動員した大規模魔術は竜を消滅させることに成功したが、その代償として暴走した両者の魔力の残滓が反応し合い、天候への影響が残ってしまう。更にこの事件により一部大きく変わった地形が、以降激増した天災を国に発生させる一因となった。
この謎の竜出現事件の原因は不明だが、一説には当時王宮で起きていた後継争い及び、それに伴い悪化し始めていた治安を憂えた水神が遣わした御遣い竜ではないかという意見もある。
フヴィシュナと呼ばれる山と緑の王国で、以降三百年以上に渡って語り伝えられる出来事である。
本編完結して、次回から番外編に入ります。主人公である二人の子供の、苦しいけれどわりと平穏で幸せな日常を描いていく予定。
気紛れ更新ですが、宜しければこれからもお付き合い下さい。