6:いつかどこかの薬師の記憶
男がその少女に出会ったのは、六年ほど前の夏のことだった。
山の中にぽつりとある里に住む、灰色の瞳の小さな女の子。
会うのは精々年に一、二回、薬の行商や薬草の採取に訪れる際に、同じく薬師の真似事をしているらしい少女と少しばかり話をした。
人懐っこく見える子供だな、と思ったことを覚えている。
孤児という境遇に見合わず言動は明快で、愛らしい顔をへらりと緩ませて笑っていた。
時々訳の分からない言葉を使い、おちゃらけたことを言う彼女の姿は、以前一度だけ城下で見かけた道化師の公演を連想させた。
三回ほど会ううちに、この少女は相当頭の良い子供らしいと思うようになった。
敢えて能天気に見せているのは何のためかなどと聞くつもりはないが、男はそれを事実として考えている。――五歳にもならないうちに離れた親の技術を自力で盗むような『普通の』子供が、一体この世界のどこにいるというのだ。
少女は周辺の地理に明るく、薬草を探す男の道案内を務めてくれた。
ろくな師も教本もなく腕自体は初級レベルで止まっていたが、基礎はしっかり覚えているらしく、作る薬や目利きは確かだった。
お互いに家族がいないこと、分布による薬草の効能の違い、見たことのない草を齧ってみてうっかり死にかけたこと、賑やかな町の話。
男は子供が苦手だったが、交わされる会話は少女よりもっと年上の人間と話しているかのようにするすると続いた。
少女より年下の男の子が里に来た時も、色々彼女から話を聞いた。何かと構ってはいるようだが、そちらはどうも大人しい性格のようなので、少女のペースに付いて行くのは大変だろうと少しだけ気の毒に思う。
男は行商であちこちを回っていたが、同じ年頃でこの少女ほど面白い子供になど滅多に出くわすものではない。
時に教え、時に教えられ、二人の交流は細々と続いていた。
――最後に少女と会った時、男はこの時期、この山にしか生えない薬草を採りに訪れていた。
日も暮れかけた頃になって到着した男と森の中で出くわした少女は一瞬目を見開いて、それから安心したように眉尻を下げ、いつものようにへらりと力の抜ける顔で笑った。
「お久しぶりです、薬師のおじさん。今回は里には行かない方が良いですよー」
雨が降らなくて皆がピリピリしているのだと、何でもなさそうに少女は言った。実際にはもっと悪いことになっているのかも知れない。
「そうか。じゃあ今回は行商はやめておくか」
「それが良いと思います。やー、なんかもう皆殺気立ってて怖い怖い。そろそろ倒れかけてる人もいるから危ないですよ」
「じゃあ、どっちみち代金は望めそうにねぇな」
「そうですね、薬買うお金があったら食料の方欲しがるでしょうし」
うっかり身ぐるみ剥がされたらたまらねぇなぁ、と男は思った。
追い詰められた人間は何をするか分からない。それが集団となれば尚更だ。
男は善人でも聖職者でもない。小さな里が一つ潰れて、それで何十人と人が死んでも、それはそれで自分にはどうしようもない、当たり前の自然の摂理だと思っていた。
「雨が降らなくて。本当に危ないんですよ。口減らしじゃ済まないくらい。下手すればおじさんも巻き込まれますよ」
「怖ェな」
「本当にね」
他人事のようにうんうん頷き合って。嫌そうに吐息を一つ吐き出した少女は、痩せた顔で男を見上げ、ぽつりと問うた。
「――ねえ、おじさん。以前言ってた弟子入りの話、今でも気は変わってませんか?」
男は、一拍置いて頷いた。
「ああ。俺もいい加減後継を考えなきゃならない時期だろうしなぁ。ただし俺は足が悪いし、余裕があるわけでもねぇから、取るとしても一人が限度だろうが」
何だ嬢ちゃん、弟子入りする気になったのか。一人しかいねぇ分手間はかけてやるぞ。そう笑う男に、少女も小さく笑声を零した。
「ええ。そうですね――是非お願いします。良かったですねおじさん、一生に一度の超掘り出し物ですよ! 何たって、覚えが良くて聞き分けが良くて、とっても可愛い賢い子供! 将来的には世に名を馳せる美形薬師間違いなし、これを逃したらもう後はないお買い得品です! よっ、世界一の師匠! 渋さが滲む男前っ!」
「がっはっはっ、そーんな煽てても何も出ないぞー!」
げらげらと笑いながら頭をぐしゃぐしゃに撫でてやると、少女はきゃあきゃあ言って笑った。
男に妻子はいなかったが、こういう娘なら悪くなかったかも知れないと頭半分で考える(尤も一秒後には、先日『お父さんのパンツと私の下着、同じ桶で洗わないでよ!』と娘に言われたと飲み屋で泣いていた兵士の姿が脳裏に過って、やっぱりいいやと否定した)。
「大事にしてくださいね! 何せこの私が直々に保証する将来有望な大型新人なんですから! 絶対ですよ! 約束ですよ!」
「そういうの保証じゃなくて自己推薦って言うんだぞー」
よく分からない自信満々な物言いも、少女が言うなら期待外れにはならないだろう。
しばらくじゃれ合っていた後、少女は思い出したように身を離し、はたりと男を見上げてきた。
「あ、そうだった。そう言えばおじさん、今年もミツツムリを採りに来たんでしょう? まだ採ってないよね?」
「おう、そうそう。今夜は里に泊まって、明日行こうかと思ってたんだよ」
「じゃあ、こないだ採取した分、うちに干して置いてあるから、良かったら弟子入りのオマケにあげますよ。明日お届けしますねー」
「あー、そうだな、頼むわ。里に入らない方が良いなら今夜は野宿か、先に待ち合わせ場所に行っとくかなぁ」
崖の上に生えるミツツムリの生息環境は、足の悪い男には少々厳しい条件である。
少女の提案は素直に有難かったので、男はあっさりそれを受諾した。少女なら、薬草に適当な扱いなどはしていないだろう。
――そうして翌日の合流地点を決めて、二人は別れた。
「さよならおじさん、引き受けてくれてありがとう!」
「よせやい、後悔はさせねぇんだろ?」
また明日な、と手を振った男に、少女は笑って、そして言葉を返さなかった。
※※※
翌日の朝、男は打ち合わせ通りの合流地点に座っていた。
すぐに発てるように荷物を纏めて、今日も遠慮なく照りつける太陽を見上げながらのんびりと待つ。
――けれど、予定の時間をほんの少し過ぎた頃、道の向こうからやって来た子供は、あの元気な少女ではなかった。
少女より少し幼い、粗末な衣服を纏った少年だ。ふらふらと頼りない足取りで歩く少年は男にちらりと視線をくれ、すぐに興味を失ったように目を逸らした。
少年が目の前を通り過ぎようとしたと同時に、男は思わず瞠目する。
天啓のように少女の行動の意味を悟った瞬間、反射的に伸びた腕が少年を掴んで強引に引き止めていた。
――少年が手にしているのは、少女がいつも薬草を包むのに使っている、彼女お手製の袋だった。
『――大事にしてくださいね! 絶対ですよ! 約束ですよ!』
昨日少女に告げられた言葉を他人事のように思い出しながら、男は茫然と喉を震わせた。
「……何ですか」
掠れた声で少年が睨んでくる。男は迷って、遠回しに聞くことにした。
「あー、いや、お前。この道の先の里から出てきたのか?」
「……そうですが」
「えーと。お前、一人? 他には誰もいねぇのか? 後で誰かが来る、とかは」
詰まりながらも聞いた言葉には、全て否定で返された。
男は目の前の少年に心当たりがあった。直接顔を合わせたことはないが、あの少女が何度か話していた、少女より少しだけ年下だという少年だ。
男とて、疑問に思わなかったわけではない。里を出る決意を固めた少女が、可愛がっていた小さな少年を一体どうするつもりなのか。
けれど少年の方には少女より興味は抱かなかったし、割り切って置いて行くことを決めたのなら、それも良いだろうと思っていた。
もしかしたらこの一年が過ぎる間に死んだか他所に行ってしまったのかも知れないとも考えて、敢えて確かめはしなかったのだが。
――けれど。
昨日話した少女の台詞が頭を巡る。
そう言えば彼女は一度たりとも、付いて行くのが自分だとは言わなかった。
約束の時間を過ぎてもやって来ない少女と、里の方から現れた、約束の品を携えた少年。
――ならば、それが彼女の答えなのだろう。
男は一度、深々と息を吐いた。胸の奥に凝る重苦しいものを、体の外に押し出すように。
「――お前よ、俺の弟子として薬師を目指す気はねぇか?」
そう告げた言葉に希望の欠片も見せない少年の濁り切った瞳が、いっそ痛々しくてならなかった。
※※※
全ての話を聞き終えて、血の気の引いた顔を強張らせた少年は無言で身を翻した。
唯一の荷物を取り落としたことにも気付かずに、ついさっき来たばかりの道をよろめきながら走り出す。何かに追われるかのようにひた駆ける少年の背中は、すぐに道の向こうへ消えて見えなくなった。
石に腰を下ろしたまま、男は深く溜息をつく。
追いかけて里へ行くことはできなかった。あのおちゃらけていて聡明で、時々狡賢い少女がここまでしなければならなかったということは、恐らく事態は既に取り返しのつかない所まで進んでしまっている。
少女が隠しておきたかったであろう事情をあの少年に全て話したのは、他に選択肢がなかったからだ。
もしもあの少年が、同じ年頃の子供達とせめて同程度に愚鈍な性質だったならば、或いはもっと我が身を優先する気性だったならば、男は何も話さなかっただろう。
ただ少年を弟子にし、真面目に知識を与え、我が身を立てるに充分なだけの力を与えただろう。それを少女が望んだ通りに。
けれど少年は気付いてしまった。
少女の意図を察した時に見せた必死の形相を見る限り、たとえ無理やり引き摺って行ったとて、少年は決して大人しく従いはしなかっただろう。
そして悪いことに、恐らく少年は少女が思っていた以上に、少女に対して依存していた。
出会った時の屍のような目を見れば分かる。きっと少女は、あの少年を突き放すことで里を追い立てたのだ。
何も教えず逃がした少年が、二度と戻ってこないように。一人里に残る少女のことを、二度と思い出さないように。
――最後の最後で当てが外れたな、嬢ちゃん。
心の中だけで囁いて、男は静かに瞑目する。
最早先がないからこそ、少女は一人、少年を逃がした。少年は少女の思いを悟って、それでも里に駆け戻った。
きっと自分があの子供達と会うことは、この先二度とない。
(……一生に一度の超掘り出し物、取り逃がしちまったなぁ)
苦々しい笑みを零して、男は立ち上がった。地面に転がっていた小さな包みを拾い上げ、埃を払って丁寧に自分の荷物の中に収める。
一度だけ顔を上げて、里の方を見た。
それからゆっくりと背中を向けて、麓へ続く道を歩き始めた。
この数年後、薬師は拾った孤児を一人弟子にして、ちゃんと一人前に育て上げたそうです。家族だけはとうとう持たなかったけど、最期は弟子と孫弟子に看取られて静かに死んでいったとか。彼が酔いに任せて一度だけ語った『奇妙で聡い二人の子供の話』は、弟子だけがひっそりと覚えている。