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かつて見た果て  作者: 笠倉とあ
本編
5/18

5:終焉を告げる声が聞こえる

 その日、水汲みから戻ってきた少年が見つけた彼女は、妙に顔色が悪かった。

 未だ降らない雨のせいでいよいよ栄養が足りなくて体調を崩したのか、それとも最近ピリピリしている里人達とでも何かあったのか。


「……具合でも悪いんですか」


 少し躊躇ってから声をかける。彼女は一瞬肩を跳ねさせ、少年の方を振り向いた。

 灰色の目に奇妙に思い詰めた色が宿っているような気がしたが、それはすぐに消えてしまう。いつもの表情でにへらと笑ってみせて、彼女は軽い仕草で手を振った。


「あー、お帰り。そうだね、深刻な悩み事があるんだ、聞いてくれる? ねえ、どうして私はこんなにも優しく聡明で寛大で全世界から将来を嘱望されるまるで神の領域に踏み込んだが如き才能溢れる人間なんだろう。このまま成長したらいっそ後光の輝きで辺りを埋め尽くしてしまって、私の他に何も目に映らない人間を大量生産してしまうよ。私は私という存在以外の全てを奪ってしまったその人達に一体どう詫びればいいのかな!」

「元気そうですね」


 ズバンと一言で切り捨てながら、少年は彼女の膝裏に軽く蹴りを叩き込んだ。

「おアフッ!?」と奇声を上げて倒れる彼女に冷たい目を送り、苦々しい思いで舌打ちする。

 彼女が真面目な顔をするところも弱った顔をするところも、少年はほとんど見たことがなかった。誤魔化されていると分からないほど、愚鈍な子供ではない。


「……とっとと小屋に戻りなさい。僕はこの後里長の家で仕事があります。付いて来ても構ってはやれませんよ」


 嘘だった。この後の作業は薪拾いで、彼女が知れば間違いなく手伝いを申し出るに違いない。


 棒切れのような体をしているのだから、自分に構っていないで体力を節約しろ、なんて素直に言える少年ではない。

 情けなく眉尻を下げて、彼女は苦笑いを零した。


「キミはしっかり者だねぇ。……そうだな、それも良いのかも知れない」

「…………?」


 眉を寄せた少年に、彼女はひらりと手を振って歩き去っていった。

 小屋の方へと歩いて行ったが、どうせまた調合でも始めるのだろう。彼女が「また明日」と言わなかったのは初めてだと、少し経ってから気付いた。




※※※




 それから五日間、彼女はやって来なかった。


 里内にいることもあまりなく、朝早くから薬草用の手籠を抱えて森へ入っていくのを何度か見た。

 日に日に明るさを失っていく顔は、飢えや渇きの苦痛よりも、何か酷く焦りを感じているように思えた。


 急に近付いてこなくなった彼女に、少年が不審を抱かなかったわけではない。生活の中にぽかりと空いた空白は、存外大きくて目についた。


 話しかければ良かったのかも知れない。

 けれど、少年は彼女の方から手を伸ばされることに慣れ切っていた。

 掴まれた手を握り返すことだけ知っていればそれで用は足りたから、こちらから手を伸ばす方法なんて知らなかったのだ。


 ――つまらない矜持が邪魔をして彼女の細い背中から目を背けたことを、少年は生まれ変わった後まで、ずっと後悔している。




※※※




 彼女が近付いてこなくなって六日目の朝。

 まだ日も昇らない早朝に、少年は体を揺さ振られて目を覚ました。


 一瞬寝過ごしたかと思ったが、それなら怒声が降ってくるはずだ。

 目を開けた少年の視界に映ったのは、暗がりの中に浮かぶ、固く強張った少女の顔だった。


「喋るな。黙って付いて来て」


 短く囁いて立ち上がった彼女は、少年の手をぐいと引っ張り、寝床である物置小屋から強引に連れ出した。


 秋も半ばの季節と立地が相俟って、早朝は些かどころでなく肌寒い。

 粗末な服一枚しか着ていない少年の腕にぞわりと鳥肌が立ったが、足音を忍ばせて里を駆ける彼女の空気に気圧されて、何も言えずに従った。


 里を抜けて、冷たい息を吐きながら無言で森をひた走る。

 いつもの道を逸れ、薪や薬草を探す辺りを通り越して、木々が途切れたところで彼女はようやく足を止めた。


 目の前には山を降りる小道がある。

 息を荒げて呼吸を整える彼女の横で、少年も何度か深呼吸して息を落ち着かせた。一体何事か、と問おうとした時、彼女が少年に何かを押し付けた。


「――何を、」

「出て行きなよ」


 ――――は、


 反射的に粗末な包みを受け止めて、山道に押し出された少年は一瞬言葉を失った。

 自分に対して一度たりとも向けられたことのない、辺りの気温よりも冷たい声色に思考が止まる。彼女は感情の色を消して、少年を見詰めながら別人のように淡々と言葉を並べていった。


「里の食糧事情がいよいよ危ないってことは分かってるんでしょ? このまま道に沿って行けば山を降りられるよ。後は好きにすればいい」

「ちょ、っと待ってください。それは本気で?」

「本気だよ。里にいたって先がないことくらい、キミなら分かってるでしょ。それともここでずっと奴隷みたいに扱われて生きていきたいの?」

「何を馬鹿な、そんな簡単に逃げられるのなら、僕だってとっくに……いえ、分かりました、僕のことは置いておきましょう。なら、あなたはどうするんですか。一緒に行くようには見えませんが」

「私は行かないよ」

「……それは矛盾しています。里に先がないから逃げろと言うのなら、あなただってそうするべきじゃないですか」

「――煩いな、全部キミのせいじゃない!!」


 彼女がとうとう声を張り上げた。

 叩き付けられた怒気に頬を打たれたような気がして、少年は思わず口を噤む。びくりと立ち竦んだ少年に、彼女は初めて見る厳しい顔で、睨み殺すような視線をくれた。


「この前大人達が話してるのを聞いたんだ、これ以上雨が降らないなら口を減らさなきゃいけないって! 間引くのならまだ小さいキミよりも、年上で体が大きい私の方が良い、一人減ればもう少し食糧が保つだろうからって!」

「な……、」


 知らされた事実に、ぐらり、と少年の視界が揺れる。

 口減らしは、雨が降らなくなってから少年が努めて考えないようにしていた可能性の一つだった。

 彼女が、間引かれる? 愕然と震える少年の頬を、冷たい汗が一筋、伝ってぽつりと地面に落ちた。


「……私は死ぬのは嫌だよ、痛いのも苦しいのも大嫌いだもの。なら、キミがいなくなればいい。里の人達には、キミが逃げたって言っておいてあげる。そうすればわざわざキミを探そうなんて考えないでしょう? 余計な食い扶持がいなくなってくれた方が、あの人達には都合が良いんだから」


 ちらりと肩越しに里の方向を見て、彼女は吐き捨てた。


「だから、私は行かないよ。行く必要がない。キミは一人で山を降りて――、……好きに暮らすなり、勝手に野垂れ死ぬなりすればいいんだ」

「――――っ、」


 その言葉を放たれた瞬間、ひく、と小さく喉が震えたのを、知ったのは少年本人だけだっただろう。


 彼女が――他でもない彼女こそが自分にその言葉を告げた人間であることを、少年は信じたくなかった。まるで刃物で抉られたように鋭く痛みを訴えた胸を、左手がきつく握り締める。

 ぐっと目を見開き、無意識に後ずさった足が、砂利を踏んで耳障りな音を立てた。それでも固まったようにその場から動かない少年に、少女はついに激昂した。


「――いい加減にしなよ! 分からないのかなぁ、キミが邪魔だって言ってるんだよ! あの里にキミの居場所なんて無い! どこにでも行って、好きに生きればいいんだ! ――――二度と戻ってきたりしたら、許さないんだから!!」


 腹の底から叩き付けるように怒声を上げ、彼女は力の限り少年を突き飛ばした。

 バランスを崩した少年は、勢いよく地面に尻餅をつく。

 数秒置いてじわじわと血が滲み出す手のひらの痛みと、歯を食いしばってこちらを見下ろす彼女の顔が、くっきりと記憶に焼き付けられた。


 茫然と見上げていた少年の顔が微かに歪み、一拍置いて地面を蹴る。

 少女が指示した道へと。里ではなく、目の前の少女の存在からこそ逃げ出そうとするかのように。



 ――振り向きもせずに山道を駆け下りて行く少年の背中が見えなくなるまで、彼女はそこに立っていた。

 小さな背中が道の向こうに消えると、彼女は数秒置いて額を押さえ、ぐしゃりと大きく顔を歪めた。


 深く深く、震える息を吐き出して、祈るように目を閉じる。

 ぐ、と拳を握り締め、それからゆっくりと目を開けた。


 身を翻して、少女は真っ直ぐ背筋を伸ばし、里の方へと歩き出した。




※※※




 少年の足が止まったのは、どれだけ走った頃だっただろうか。

 ずっと酷使し続けた足が立ち止まった途端に震え出して、我慢できずに蹲る。肩越しに振り返ってみたが、もう彼女の姿など見えるはずがなかった。


 ――彼女はもう、一人で里に戻ったのだろうか。


「…………、」


 彼女の名前を、唇だけで紡ぐ。腹の奥から込み上げた激情が、ぐちゃぐちゃになった頭の中を一瞬にして支配した。


 ――ガッ!


 吐けない罵声の代わりのように、少年は地面を殴り付けた。

 あかぎれだらけの拳で、何度も何度も。拳の痛みと手のひらの痛み、彼女の言葉で抉られた心臓がズキズキと疼く。


 小さな拳が打撲痕に染まった頃、ようやく彼は手を止めた。


「…………行こう」


 地面に転がっていた粗末な包みを抱え、幽霊のような動作でふらりと立ち上がる。

 気力など既に尽きかけていたし、正直言うならずっとここで膝を抱えて蹲っていたかった。

 けれど、自分は彼女から離れなければならない。他でもない彼女が失せろと言ったなら、少年はこれ以上ここに留まることはできなかった。


「道に沿って行けば山を降りられると言われましたね……。人里はあるでしょうか……。ああ、でも動けなくなる前に仕事にありつけないと、結局また同じことか……」


 ぶつぶつと呟きながら、ふらつく足取りで歩き出す。


 道を逸れていなかったのは幸いだった。うっかり茂みに分け入って、獣のテリトリーに踏み込んでしまってはたまらない。

 山を降りるなら夜になる前が良いだろう、残り少ない体力でどこまで動けるかが問題だ。


 とうに日が昇っていることも気にせずに、ふらふらと歩みを進める。

 それからどれだけ山を降りた頃か、少年はふと道の先に人影があることに気付いた。


(……行商人でしょうか)


 虚ろな目でその人間をちらりと見る。

 背の高い、大きな荷物を持った男だ。石に座って休憩を取っているようだが、人買いや盗賊でないなら別に良い。


 興味を失い、そのまま通り過ぎようとした少年の腕を、男ががしりと掴んだ。


「…………」


 振り解くほどの気力もなく、少年はのろのろと男を見やった。


「……何ですか」

「あー、いや、お前。この道の先の里から出てきたのか?」

「……そうですが」

「えーと。お前、一人? 他には誰もいねぇのか? 後で誰かが来る、とかは」

「……見ての通りです。放してくれませんか、僕なんて売っても麦半袋の値段にもならないと思いますよ」

「こんな今にも死にそうなガリガリのガキ、誘拐したって割に合わねぇよ」


 男は嫌そうに顔を顰めて手を離した。


 不精髭でやや年齢が分かりにくいが、歳は四十かそこらといったところだろう。後ろ暗い仕事をしている人間特有の陰は、今のところ男の顔に見当たらない。

 少年が無言で歩き出そうとするのを見て、男は慌ててまた腕を掴んできた。


「だから待てって、用があるんだよ!」

「知りません。僕はもうあの里の人間ではない」

「里じゃなくてお前に用があるんだ!」

「…………」


 胡乱気に眉間に皺を寄せて、少年は男を見上げる。

 色も感情も含まない眼差しに男は怯んだように眉を顰めたが、今度は手を離そうとはしなかった。「あー」「くっそ、そういうことかよ」とぶつぶつ呻いて頭を掻き回し、一度深々と息を吐き出した後、男は改めて少年を見下ろして口を開く。


「――お前よ、俺の弟子として薬師を目指す気はねぇか?」


 それは、あまりにも唐突な申し出だった。

 目の前の男が何を言っているのか、少年は一瞬理解できなかった。男は大きく溜息をつき、「見りゃあ分かると思うがな」と言葉を続ける。


「俺は薬師として行商やってるんだが、この通り、もう若くない。それに以前事故で足をやっちまって、行商やるにはきついんだ。俺には嫁もガキもいねぇし、そろそろ一つ所に留まって弟子の一人も取ろうかと思ってたんだよ。

 お前が付いて来ても良いってんなら、俺んところで助手やりながら勉強すれば良い。一人で里追ん出されてきたなら、行く当てなんかないだろう?」

「…………、」

「ほれアレだ、人生一期一会とか言うじゃねぇか。俺は弟子が欲しい、お前は行く当てが欲しい。これもまた一つの縁だろう」

「……馬鹿らしい。誘拐犯だってもっとそれらしい言い訳を並べますよ。第一、あなたは何の用でこんな所にいるんですか? 話がうますぎておかしいです」

「俺はお前が住んでた里に、薬の行商に行く予定だったんだよ。だがまあ、お前が来るってんなら、色々気まずいだろうし取り止めても戻っても良い。どうせ大した儲けにもならないだろうしな」

「どこまでも僕に都合の良いその言動が怪しいんですよ。普通ならこんな薄汚れた子供、売り飛ばそうとすら思えません」

「じゃあ聞くけどな、お前行く当てあるのか? 里にはもう戻れないんだろう?」

「それは――」


 言い掛けて口を噤み、少年は唇を噛み締めた。男が面倒臭そうに溜息をつく。


「ほら、ねぇんだろ。なら大人しく乗ってみろ。信じらんねぇのは分かるが、お前このままじゃ、どの道町で行き倒れるぞ? 俺が足悪いってんのは本当だからよ、マジでヤベェと思ったら、その時はとっとと走って逃げ出しゃいいさ」

「…………」


 ぐ、と少年を捕まえる手に力を込め、男が立ち上がろうとする。俯いてぼんやりとそれを認識していた少年は、ふと顔を上げた。


「――――何故僕が『追い出された』と思ったのですか?」


 ――ほんの一瞬、男の表情が固まった。少年はそれを見逃さず、掠れた声を絞り出すように言葉を繋ぐ。


「自ら逃げてきた可能性もあるのに、追い出されたと断定したのは何故ですか? 何故あんなにも、他に人がいないか確認を? あなたがここにいたのは、本当に都合の良い偶然ですか? 大事な商売先の一つである里への立ち寄りを、そんなにもあっさり諦めたのは何故? ――――彼女が、あなたに何か言ったのですか?」


 疑惑を口にすればするほど、動揺に男の目が泳いでいく。

 最後の一言を半ば確信を持って投げ付けると、掴まれていた手を強引に振り解いた少年はこれまでの虚ろさを一変させ、刃のような双眸で男を睨み上げた。


「話してください。彼女は何を言ったんですか。何をあなたに頼んだんですか。ここにいれば僕が来ると言われたんですか? いつ彼女に会ったんです。僕はあなたを知らない。あなたは彼女の何を知っているんですか」

「あーあーあー、落ち着け! 次々言われたって分からねぇよ! 俺は話してやっても良いけど、あいつはそれを望ま」

「話せと言っているのです!!」


 少年の上げた怒声は、最早悲鳴のようだった。物心ついてからひたすら他人に従順であり続けた子供が、初めて他者に本気の怒りをぶつけていた。


「教えなさい、教えてください! 彼女は何をしたんです! あなたは何をするつもりでここにいたんですか!」


 男の胸倉に掴み掛かって、少年は泣きそうな声で叫び続ける。

 引く気配のない訴えに、男はようやく説得を諦めたようだった。両手を挙げて降参を示し、顔を顰めて肩を落とす。


 ――そうして男が語り出した内容は、少年から残り少ない気力を根こそぎ奪い取るようなものだった。

 男の話が示すことを当の男以上に理解できてしまうくらいには、少年は聡明で、そして彼女のことをよく知っていた。


 話を聞き終えると同時に身を翻し、転がるように道を駆け戻っていった少年を、男は止めなかった。


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