3:いつかのための約束をしよう
おい、と背後から呼び掛けられて、早朝から竃の番をしていた少年は振り向いた。
立っていたのは、そろそろ白髪に染まりつつある五十絡みの男。
少年が仕えている、この里の長だ。ふうふうと吹いていた竹筒を下ろして、煤だらけの顔で立ち上がる。
「……御用でしょうか」
「ここは別の者を寄越す。西の獣道を抜けて半日ほど歩いた先に泉があるから、お前はそこの水を汲んでこい。今すぐだ」
「……畏まりました」
用事だけ言って、里長は踵を返した。
どうしていつもの川では駄目なのか、なんて聞くことは許されない。頭を下げる少年に、里長は振り返らずに付け加えた。
「ああ、近くに湖があるが、間違ってもそちらには踏み込むなよ」
「はい」
里長がいなくなってから、少年は溜息をついた。
すぐに行けと言われたのだから、すぐに行かねばならない。――朝食を貰っていないなんて、彼らにとっては些細なことだ。
水桶だけを持って里を出た少年は、西の出入り口付近をうろつきながらそれらしき獣道を探した。
見つけたそれはしばらく使われていないらしく、でこぼこして歩きにくそうだったが仕方がない。水桶を持ち直して一歩踏み出した時、背後から「おーい」と声が聞こえた。
振り返ると、丁度馴染みの少女が走って来るところだった。
「何か用ですか」
「おはよう!」
「まさかそれ言うためだけに走ってきたとか言いませんよね?」
「新しい朝だね良い朝だね希望の朝だね!」
「……おはようございます」
挨拶を返さない限り話が繋がらないだろうと思ったので、少年は渋々そう呟く。にっかー、と笑った彼女が言った。
「ここから出ようとしてたってことは西の泉に行くんでしょ? 私も用あるから一緒に行こう!」
「……好きにしてください」
肩の力を少し抜いて、少年は選択権を丸投げした。
どの道自分に彼女の行動を制限する権利など欠片もない。自分だけでは途中で道に迷わないとも限らないし、道を知っているらしい彼女が来てくれるのは有難かった。
わーい、と言って歩き出す彼女の隣に並びながら、里長には聞けなかった疑問を口にしてみる。
「里長様に、今日は西の泉で水を汲んでこいと言われたんです。何故西の泉まで行かねばならないのか分かりますか?」
「んー、ご利益があるって言われてるからじゃないかなぁ。実は里長の孫殿が熱出したんだよ。私は解熱に効く薬草が泉の周りに生えてるって言って出てきたの」
そう言えば、今朝は少し母屋が騒がしかったような気がする。
それで手が足りなくていつもより早く起こされたのだが、成程病人が出たとなれば人手も取られるだろう。
「……そう言うあなたも、何やら顔色が悪いですね。体調でも悪いんですか?」
「昨日の名残りかな。昨晩はずっと自分と戦っていたからね……。熾烈な戦闘だった……!」
「具体的には?」
「居眠りしそうだった」
「…………」
半眼で自分を見てくる少年に、彼女は歯を剥き出して「仕方ないじゃん!」と抗議した。
「昨夜遅くに呼び出されて、里長に張り付かれて孫殿を看ながらほぼ徹夜だったんだよ!あのおっさん、孫を心配して寝ないだけならまだしも、孫の思い出話だの嫁に行った娘の思い出話だの延々と語ってくるんだもん!」
「ああ……年寄りの話はループしますよね……」
「ちっくしょう、あのおっさん絶対これから寝直す気だよ! バイオハザード観に行ったらゾンビが出てこなかったくらいの理不尽さだよ!」
「ゾンビ……? あなた、腐乱死体なんかわざわざ見物に行ったことがあるんですか?」
「それ引くわー、みたいな目で見るのやめてくんない!? 誤解だから! 不名誉だから! あ、クログロだ!」
ぎらりと目を輝かせ、目に付いた木に飛び付いた彼女が上へとするする登っていく。そして最早三十秒前のことも覚えていないような顔で降りてきて、少年に大きな紫色の木の実を投げ渡してきた。
猿と木登り対決したらいい勝負するに違いない。
「これって紫なのになんでクログロって言うんだろうね。あと正直グログロと間違えない? なんかグロ映画を連想するんだけど見た目はマンゴーとかこれ如何に」
「……あなたの話の転換速度に時々付いて行けません」
そこで彼女がクログロに齧り付いたので、少年はようやくツッコむ隙を得た。
彼女は紫色の果実をもっしゃもっしゃと咀嚼しながら、肩を竦めてこう言い切る。
「女の子ならこんなもんだって。慣れとかないと将来恋人できた時困るよー?」
当たり前のように言われた言葉に、ふと少年の思考が止まる。
恋人なんてものを持っている自分を、少年は想像できなかった。
あの里で使用人をしている限り、自分が恋人や妻を得られるとは思えない。そして同様に、目の前の彼女が恋人や夫を持つところを想像することもできなかった。
(いや、孤児とは言え彼女は里で唯一の薬師だし、見目も悪くない。世渡りも上手いから、意外とあっさり誰かを捕まえるかも知れない)
五年も経てば、彼女も適齢期になるだろう。
そうしたら、里の娘達のように彼女もさっさと結婚してしまうのだろうか。
彼女が自分の時間を夫と子供に割くようになれば、もう少年に会いに来ることもない。こうして二人で獣道を歩くこともなくなるだろう。
そこまで考えて、そうなって欲しくはないなと思った。
――馬鹿らしい。
こんな扱いにくい小娘、ずっと一人身でいればいいのだ。あの里人達程度の人間が近付いたって、結局手に負えなくなって投げ出すのが落ちに決まっている。
それなら初めから無駄なことをせずに、このまま自分の隣にいてくれた方が余程良い。――自分なら、彼女を投げ出したりなんてしないのだから。
(彼女がいなくなったら……随分と静かになるでしょうね)
意味のない思考を振り払うように、少年は無言で紫色の実に歯を立てる。柔らかい果肉の歯応えと、甘い実の味が空腹に沁みた。
一足先に木の実を食べ終えた彼女が、手に付いた汁を舐め取って口火を切る。
「ところで話は戻るけどさ、どうして西の泉にご利益があるって言われてると思う?」
「僕はあなたが最初の話の内容を覚えていたことに驚きましたよ。分かりませんね」
「息をするように毒を吐くのやめてくれない? ……実はこれから向かう泉の近くには、湖が一つあるんだよ」
彼女の言葉に思い出す。そう言えば、今朝方里長がそんなことを言っていた。間違っても近付くなと。
「本当は、ご利益あるのはそっちの湖の方。綺麗な所だよ。泉は地下で湖と繋がってるとかで、水が流れ込んでるらしいんだけど」
「なら、湖に行っても良いのでは? 大元を辿った方がご利益があると思われるのでは」
「それが駄目なの。国に保護管理されてるから、勝手に使ったら罰されちゃうんだよ」
「へえ……」
「色んな話が伝わってる。聖域だとか、水神様が棲むとか、竜が飛び立ったとか。ずっと昔は、生贄として男の人を捧げてたそうだよ」
最後の欠片を呑み下して、少年は指を舐めた。
「男が捧げられるというのは珍しいですね。普通は女性や子供が多いと思うんですが」
「儀式の主催者が当時の神殿だったらしいからね。魔力の強い神官を贄に使ってたんじゃないかな」
「成程」
小さく頷いてみせる。
そう言えば、彼女は魔術や竜の話が好きだった。どこから調べてくるのか分からないが、その湖とてさぞわくわくして覗きに行ったに違いない。
薬草探しという名目で好きに山をうろつける彼女は、少年が知る誰よりもこの山の地理に詳しい。
「いつか一緒に見に行こうよ。大きな鏡みたいに透き通ってて、キラキラしてるんだ」
「見張りはいないんですか?」
「いないよ、代わりに柵で囲まれてるけどね。でも近くに崖があって、そこから見下ろせる。凄く切り立ってて降りるのは無理だから、兵士に見張らせてなくても平気なんじゃないかな」
「聖域と言っても、あまり厳重ではないんですね」
「所詮昔の言い伝えだからね。儀式自体、もう何十年も行われてないらしいし」
ぶん、と薬草籠を振り回して、彼女は空を仰いだ。
「生贄なんてのは嫌だけど、竜や魔術はロマンだなあ。私もいつか見てみたい」
「……魔術師になれるほどの魔力持ちなんて、そうそう生まれてきませんよ」
仮令生まれてきたとしても、そこが平和な田舎町ででもあれば、自分の中に眠る魔力に気付かないまま一生を終えることもある。
普通の人間は、まず自分や家族が魔力持ちだなんて考えに至らないものだ。彼女の望みは叶わないだろうと思いながら、少年は意識を切り替えて足を早める。
「……雑談が過ぎました。急ぎますよ。あまり遅くなって、戻った時にお孫様の具合が悪くなっていたりしたら、怒られるのは僕達です」
「はーい。……などと、軽い気持ちで向かった泉であのような事件に巻き込まれようとは、今の私達には想像もできなかったのである」
「不吉な前振りやめてください」
特にトラブルもなく二人が里に帰り着いたのは、結局月が昇ってからの話だった。