2:君の名前
少年より二つ三つ年上だというその少女もまた「おやなし」だということは、会って三日もしないうちに判明した。
オウリと名乗った彼女は、かつて薬師であった両親の元に生まれ、生活が苦しくなって捨てられたらしい。流れ流れてこの里に辿り着いた後は、見覚えた技術でやはり薬師の真似事をしているようだ。
ボロでも一人用の小屋を与えられ、少年よりも幾分かマシな扱いをされていることを考えると、どうやら彼女は里人達から有益な人間だと判断されているらしい。
彼女が辿ってきた人生を、少年はあまり知らない。ただ、名乗る名すら持たなかった少年に、彼女はあっけらかんと笑ってこう言った。
『何だ、私と同じかぁ。私だって生みの親にはソレコレ呼ばわりされてたよ。《桜璃》は昔、別の人達が私にくれた名前だからね!』
その言葉で少し気が楽になったなんて、少年としてはあまり認めたくない。
それでも、彼女をただの里の子供だと思うより、ただ一人の「自分と同じ種類の人間」だと分かった後の方が、幾分壁が低くなったように思う。
尤も、彼女がそれを理解してそんなカミングアウトをしたのか否かについては、未だに分からないけれど。
(……あ、)
日課の薪拾いをしていた少年の手が、木の根元に群生していた白い花を摘み取った。少し迷ってから、木の上で実を探しているはずの少女を見上げて声をかけた。
「あの……」
「なにー?」
ずざあっ、と生い茂る葉を突き抜けて上半身を逆さに出現させた少女に、少年は手にしていた花を見せた。
「すみません。これ、前あなたが言ってたトガレソウですよね?」
「お、正解ー。近くにハコガレソウはなかった?」
「ありませんでした。……灰色掛かったぎざぎざの葉っぱ、でしたよね?」
「そうそう。トガレソウは腹痛の薬になるけど、ハコガレソウと一緒に生えてるのは毒を持つから採っちゃ駄目」
「毒と薬は紙一重、でしたか」
「うん。一応、ちゃんと処理すればまた別の薬になるらしいんだけどね。私にはその処理ができないから」
「分かりました、ありがとうございます」
礼を言ってから、トガレソウを腰の袋に収める。木の枝からぶら下がったまま、少女は不服そうに首を傾げてみせた。
「なんかキミ、すっかり私のすることに驚かなくなったよねー。最初の頃は私が飛び出すたびに、吃驚した猫みたいにびくっ!てなって面白かったのに」
「やはり確信犯でしたかこの性悪。その程度のことに慣れずにはあなたなんかと付き合えませんよ」
「あれ、私今ディスられた?」
「敬いたくなる年上になりなさいこの性悪」
「大事なことなので二回言いました!?」
「とっとと仕事しなさいこの素っ頓狂め」
「敬語の癖に一々高みから見下ろしてくるなキミは! いい加減にしないと私も怒るよ!? お前んちの犬勝手に逃がしてやろうかァァ!」
「タチ悪いなとは思いますがうちに犬はいません」
よしんばいたとしても里長の犬だ、ザマアとしか思わない。
げしっと幹を蹴ってやると、彼女は「落ちる落ちる」と慌てながら上へと戻って行った。相変わらず動作と台詞の軽い少女だ。
里に来てから約半年、そのほぼ毎日を彼女と共有するに至って、少年は大分彼女の突飛な言動に慣れてきた(そして少年の態度はぞんざいになった)。
別に二人で同じ仕事を言い付けられているわけではない。少年の仕事は里長達に言い付けられる種々の雑用だが、少女の仕事は薬草の採取から調合までを一人でこなすことである。
彼女の腕はプロ並みとはお世辞にも言えないものの、素人とは明らかに違う知識量で研究も欠かしていないから、これで子供で孤児でなければもっと敬われただろう。
少年が外仕事に出る時は、少女も大体顔を出す。彼女の語る話を聞きながら森をうろつくことは、少年にとって決して嫌な時間ではなかった。
――人の注意を引くことに慣れない少年の小さな呼び声を彼女が聞き逃したことは、まだ一度もない。
「ほいこっちは終わりー」
ざざざっ、と滑り降りてきた彼女を、少年は黙って観察した。二つある袋は一杯で、薬草籠も半分がた埋まっている。
「……相変わらず猿みたいですね」
「五年も山の中を駆け回ってたらこうなるよ。私だって初めはしょっちゅう怪我してたもの」
「その割には指に棘が刺さっただけでプルプルしていますが」
「見てたの!? キミあの時そっぽ向いてたじゃない!!」
「もしも誰かの弱みを掴んだら当人には知られないように振る舞えと、あなたが教えたんですよ」
「しっかり学んでた! 意外と律儀だな!」
愕然と慄く少女に、少年はふんと鼻を鳴らした。ほんの少し得意そうな雰囲気を見せた少年に、少女は「参ったなあ」とへらり、笑う。
「別の薬草を教えてあげるから、次は川に行こう。水汲みと山菜採りもあるんでしょ?」
「ええ」
「ついでにキミの可愛らしい顔を花冠で飾ってあげよう」
「それは要りません」
手を引かれるまま、少年は彼女に付いて歩き出した。軽い足取りで進む彼女は、思い出したようにこちらを振り向いて聞いてくる。
「そうだ、今日こそ名前考えてきた?」
「……いいえ。何も」
少年は無表情で首を横に振った。
少年に名前がないと知ってから、彼女はしつこく名前を決めろと言ってくる。彼女が提案する名前はどれも趣味に合わないので、これまで少年は悉く却下していた。
「何だ今日もか。いい加減決めちゃいなよ、ヘンドリック六世とかどうだろう!」
「お断りします。言っておきますが不満なのは六世の部分ではありません」
「…………」
即答でぶった切られて、少女は肩を落とした。
「カッコいいじゃない……」
「どこがですか」
そんなに言うなら自分が改名すればいい。そして十年くらい経ってから羞恥と後悔にのた打ち回ればいい。
最初は故意を疑ったが、今はもうただセンスが底辺を這い回っているのだと理解している。先日は「ならば歴史上の偉人ならどうだ」とか叫んでやたら長ったらしい名前を連呼してきた。誰だ、サナダゲンジロウノブシゲって。
深々と溜息をついて、少年は胡乱気な視線を送った。
「……あなたも飽きませんね」
「そりゃそうだよ。だって、早く決めないといつまで経ってもキミをキミとしか呼べない」
きっぱりと言い切られて、少年は少し言葉に詰まった。
「名前って大事なんだよ。全ての事象には名前があるし、名前がないものは存在を認識できないとまで言われてる。名前を呼ぶのは、その人がそこにいるのを認めてるってことだ」
時折彼女は、奇妙な知識を当たり前のように垣間見せる。
倫理。道徳。数学の公式に計算能力。様々な御伽噺。食物連鎖に雨の降る仕組み、人体構造、病気の予防、人の心を読む方法。
彼女は年下の子供を守るべき対象だと思っているし、親は子供を無条件で愛するべきだと思っている。人が人を虐げないのは当たり前で、幸せになりたいと願うのは誰もに許される権利だった。
――そんな考えを持つような人間が出来上がる環境になど、一度も居たことがないくせに。
「名前はないと駄目だよ。私だって、キミに名前を呼んで欲しいし」
彼女の内に根付いたその知識や価値観がどこからやって来るのか、少年は知らない。
(彼女の両親? それとも生まれ故郷? 否、そんなはずはない。里人の一人は彼女の両親と会ったことがあるらしいし、彼女がそんな恵まれた生まれをしていないことくらい僕にだって分かる)
しかし、ならば彼女はどこでそんな知識を得たのだろう。
彼女がひどく歪な人間に思えるのはこんな時だ。
彼女とて禁忌を覗かせる相手は選んでいるらしく、まるで断崖を隔てているかのような遥か遠い知識を語るのも価値観を晒すのも今のところは少年ただ一人にだけだった。
それは素直に受け入れれば武器になり、けれど広く知られれば確実に忌避の対象となるものだろう。
それを考えると、日頃の彼女のおちゃらけた物言いさえ、もしもの時に『本気に取らせない』ための布石に思えてしまうのだ。
――不意に、彼女がはっとした顔でこちらを振り向いた。
我知らず大人しく耳を傾ける態勢に入っていた少年は、妙な迫力に思わず体をびくつかせる。しかし彼女に言われた言葉に、少年はうっかり気圧された自分を張り倒したくなった。
「トラオっていうのはどうだろう!」
「虎のように強く誇り高くなれ、とか安易なこと言いませんよね?」
「…………やだなあ、そんな安直なこと誰が考えるのさ!」
はっはっはっ、と冷や汗をかきながら笑う彼女に、少年はじっとりとした視線を向けた。
やっぱりただの素っ頓狂かも知れない、と思い、けれど疑惑は捨てないまま、心の奥底にそっと沈めた。
その日の別れ際、少年はトガレソウの入った袋を彼女の薬草籠の上で逆さにしてやった。
いつもありがとうねと笑う彼女に、自分が持って帰っても使えないからだと素っ気ない顔で憎まれ口を叩いた。