花舞う風に散る夢と-1
「あっ」
ガシャアアン、と破砕音がして、少女の声が耳に届いた。
振り返った枯れ葉色の少年の視線の先で、濃茶色の髪の少女が中腰になり、手を差し出そうとした体勢のまま固まっている。
大小様々な壷や、イラナ麦の麦藁で作った縄が並べられた土間には、砕けた瓶の欠片が容赦なく散らばっていた。零れた薬の匂いが複数入り混じり、鼻を突く刺激臭となっている。
「キャハハハハ!」
一拍遅れて笑い声が響き、彼は瓶をひっくり返したのが少女のミスではないことを察する。いつの間にか部屋に忍び込んでいたらしい五歳ほどの男の子が、楽しそうに少女の傍から逃げ出していった。
「こら、ムルっ! 何をしとるか!」
同じ部屋で品物の整理をしていた里長が、驚いたように立ち上がって子供を叱り付けた。
何せここにある品々は里の大切な財産であると同時に、その一部を十日後に来る商人に売って、里に足りない物品や現金に換えるべきものでもある。
中でも今割れてしまった瓶の中身は里唯一の薬師である少女の作る薬で、毎回確実に収入源になる貴重な商品だ。孫に甘い里長でも流石に笑って済ませることはできないのかと、少年は微かに呆れた吐息を吐いた。
少年もまた、里長に言い付けられて、商品になるものの仕分けを行っていたところである。
これでまた機嫌の悪化した里長に八つ当たりをされねば良いがと、孫を追って部屋を飛び出していった里長を見送りながら手早く雑巾を用意した。
「怪我はありませんか?」
とたとたと歩み寄って問いかけると、瓶の欠片を拾い上げていた少女が彼を見上げて手を振ってきた。
「私は大丈夫。それより踏むと危ないから、キミは近付かないでよ。雑巾はそこに置いといてくれる?」
「……分かりました」
少年は裸足なので、細かい破片でも踏んでしまえば確かに危ない。少女の言葉に甘えて、彼は自分に言い付けられた仕事へと戻ることにした。
そうして新たな壷に手を付けた時、再び走り回る足音が聞こえてくる。
「旦那様、また皿が……!」「こらムル、止まりなさい……!」「やーだ爺のばーか!」「ああっ、それを踏んじゃいけません!」
叫び合う声と共に、廊下を大小の影が駆け抜けていく。
それを黙って見送って、彼はそう言えば、と思い出した。
確か次に行商が来るのは、あの子供の誕生日の前後だった。大方何か祝いに買ってもらう約束でもして浮かれているのだろうと推測して、それなら売り物を壊しては肝心の金が手に入らないだろうにと呆れを覚える。
あの里長のことだ、孫を捕まえて叱った後は、笑顔で甘えられてまたあっさり許してしまうのだろう。そう思って無意識に眉を寄せた少年に、少女が不思議そうに首を傾げてきた。
「どうしたの? 眉間に皺寄ってるけど、何か気になることでもあった?」
「いえ……。……ただアレが、五年後に今のあなたと同じ年齢になるとは思えなくて」
「さらりと辛辣だな」
それを言うなら、三年後にあの子供が少年と同じような落ち着きを手に入れているとも思えない。そう思った少女は幼い子供の叫び声と無表情な少年を見比べて、余りの差異に苦笑した。
全くもって釈然としない。子供らしくない二人の子供は同時に溜息をつき、そして再び自分たちの作業に戻っていった。
心なしか疲労した様子の里長が部屋に戻ってきたのは、それから三十分ほど後のことだった。
やはり孫は懲りなかったらしく、遠くにはしゃいだ笑い声が聞こえる。作業をしている少女に視線を向けて、里長は「薬師の」と声をかけた。
「さっきムルが壊した薬だが、あれの予備はまだあるか?」
問われて、少女は少しだけ手を止めた。彼女が磨いている炭入れは、この地方で採れる大きな木の実をくり抜いて作ったものだ。
「あるけど、一瓶だけですよ。新しく作るにも、薬草のストックが家にありません」
「そうか、なら今すぐ薬草を採りに行って、十日以内に新しいものを作っておいてくれ」
あっさりきっぱり命じられ、少女の顔が一瞬引き攣った。
頼みの形を取ってはいるが、含んだ意図は断定形である。逆らわれるなんて微塵も思っていないその口調に、少女は反論の無駄を悟ったらしく、数秒置いて肩を落とした。
「……分かりました。でも今から急ぐとなると、行商人が来る期間にはギリギリですね。生息地がかなり離れている薬草もあるので……そうだ、良かったら人手を貸してくれませんか? 手分けして薬草を集めたいし、一人いれば充分です」
「そうか。ならば雑用のを連れて行け。好きに使って構わん」
視線もくれずに呼び名を呼ばれた少年は、ちらりと横目で彼らを見た後、変わらず作業を続行する。解れた縄を補強しながら、彼女もわざとらしいなぁ、とぼんやり思考した。
「ありがとうございます。あ、野宿に必要な物資も持って行って良いですよね? 途中で里に戻る余裕はないと思いますから」
「……ふん、仕方ないな。無駄を出すなよ」
若干不服そうに鼻を鳴らしながら、里長はそれでも了承した。何せ目の前で瓶を壊したのは自身の可愛がる孫なのだし、それだけ薬の収入が惜しいという思いもあるのかも知れない。
「今やっている作業が終わったらすぐに出ろ。ここには別の者を寄越す。分かったな」
「はーい」
「はい」
各々返事を返し、二人は部屋から出て行く里長を見送った。
足音が遠ざかるのを確認して、徐に振り返った少女がニヤリと笑う。
「やったね。最大十日の休みゲット」
「やはりそういうつもりでしたか」
満足そうに親指を立ててみせる少女に、少年は呆れた目を向けた。
この少年がいる前で里長に人手を貸せなどと言えば、里長は最も下っ端である彼を指名するに決まっている。ただの雑用に過ぎない彼は幾らでも人手の換えが利き、きつい山道を何日歩かせようと文句の出ない人間だからだ。
「あの薬を調合する様子は僕も見ていましたから。手分けしなければならないほど生息地の離れた薬草なんか、使っていなかったはずですよ」
「良いじゃない。頑張って作った薬を台無しにされた挙げ句、孫殿の尻拭いまでするんだから、このくらいの役得は当然ってね」
澄ました顔で炭入れを磨き終え、少女はよいしょと立ち上がった。直し終えた縄を置いた少年も、膝を叩いて埃を払う。
「何はともあれ、余計な用事まで言い付けられないうちに出発するよ。四十秒で支度しなァ!」
「遭難させるつもりですか? 十五分は寄越しなさい」
「あ、ハイ」
至極真面目に返事をすると、彼女は何故だか形容し難い表情を作った。解せぬ。
※※※
二人が住んでいる里からは、どこの出口から出てもすぐに森に踏み込める。獣除けの匂いを焚き込んだ布を腰に巻いて、二人はざくざくと獣道を進んでいた。
「で、足りない薬草というのは、本当はどれくらいあるんですか?」
ややあって問い質され、少女は「ありゃ」と笑った。
「何だ、それもバレてたのか。実は本当に無いのは二種類だけだったりする」
「そんなことだろうと思いましたよ……大方この期に、普段行けない場所まで探しに行ってみようという魂胆でしょう」
「てへぺろ!」
「その顔、腹立つ」
雑用である少年は元より、薬師である少女もまた、あまり長く里を空けることを歓迎されない。里唯一の薬師が、誰かが病気になった時すぐに呼び出せる位置にいないと困るからだ。
けれど、今回の外出ばかりは里長のお墨付き。山中での野宿続きという問題さえクリアすれば、長期の息抜きと言えないこともない。
二人の足で時折薬草を摘みながら、少女の見知った区域を抜けるのには丸一日かかった。
そうして一度目の野宿をした翌日、小さな崖と森に挟まれた山道を歩きながら、少女はあちこちを指差して説明する。
「この森には薬草が少ないよ。代わりにブルナっていう木が沢山ある。ブルナは分かる?」
「名前だけは」
「保水力に優れた木なんだよ。治水に役立つんだけど、それは今の私たちには関係ないね。ブルナの実は虫下しの薬に使われる。昔は油を絞って子供に飲ませてたらしいよ」
「今は油は使われていないんですか?」
「私は見たことないなあ。特有の臭気があるし、所詮精製もしてない油の味だから、当の子供に不評だったんじゃない?」
「ああ、どんなに体に良くても、子供は理屈より味を重視する傾向が高いですからね。臭いがする上に不味いのなら、こっそり捨てる子供も多かったでしょう」
「だよね。あ、この道の先には少し開けた野原があるんだけど、私に自信があるのはそこまで。今日は折角だから、そこから少し道を外れてみようか」
「迷わないでくださいね。……その野原には、何か生えているんですか?」
「あそこは山菜くらい。でも、何年前だったかなあ。私さ、一度だけ翠月夜にその野原にいたことがあるんだ。その時に三十分だけ辺りにうっすら靄が掛かって、すっごく鮮やかなオーロラが見えた時間があったの」
翠月夜。それは文字通り、何年かに一度、翠色の月が昇る夜のことだ。
夜空に浮かぶ巨大な翡翠色の球体を、少年も以前いた村で一度だけ見たことがある。当時の主であった村長の娘が自慢していた小さな緑の宝石よりも、闇の中に浮かび上がるその月の方が何百倍も美しく見えたものだ。
「それは……羨ましいですね。さぞ美しかったでしょう」
「うん。里ではオーロラまで見えたことはないから、多分翠月夜に、あの野原でだけ見られたんじゃないかな。あれは綺麗だったよ……」
うっとり記憶を反芻する少女に珍しく素直に羨望を表しながら、少年は続きを促した。
「当日の気象条件もあるのかも知れませんね。見えたのは一度切りなのでしょう?」
「そうそう。まあ翠月夜なんて、ただでさえ珍しい現象だからね。今度その夜が来たら、キミも一緒に――ッ」
慌てたように言葉を切って、少女が少年を押しのける。同時に激しく茂みがざわついて、鼠に似た小さな獣の群れが一斉に飛び出してきた。
「うわ、っとぉ!」
少年が獣を避けて木々の傍まで後退っている傍で、少女が足元を走る獣を踏みそうになって踏鞴を踏む。彼女が体勢を立て直そうとした時、激しい突風が吹いた。
「――は、」
「――え、」
どちらが何を言ったのか。
気付いた時には既に遅く、同年代より遥かに軽い少女の体は、崖の向こうへと押し出されていた。
大きく目を見開いた少年が、獣を蹴り飛ばすのも構わず少女に手を伸ばす。風に浮いた彼女の向こうに、何もない虚空が見えた。
顔を引き攣らせた少女は少年に手を伸ばしかけ――その指は絡み合わないまま、ふわりと宙に投げ出される。
甲高い鳥の鳴き声が、遠くに聞こえたような気がした。
「――――ぎゃあああああああああ! 人がゴミのようだあああああ!!」
「それ見下ろす側の台詞だって言ってませんでしたかー!?」
悲鳴の尾を引きながら、少女が勢い良く崖を滑り落ちていく。条件反射でツッコみながら、見る見るうちに少女が遠ざかるその光景に、流石の少年も血の気が引いた。
あっという間に顔面蒼白になった彼は大きく乗り出していた上半身を引き戻し、きょろきょろと周りを見回し始める。
そうして、崖下に降りられそうな道を探すため、全速力で山道を駆け出した。
二人が里長から呼ばれている『薬師の』『雑用の』は、正確には後半に『みなしご』が付く。名前はあってもなくても結局呼ばれないらしい。




