1:全ての始まり
『――二度と戻ってきたりしたら、許さないんだから!』
突き飛ばされた強い衝撃と、地面を擦った手のひらの痛みと。
世界でたった一人信じていた人に叩き付けられたあの言葉を、彼は決して忘れない。
※※※
ラトニ・キリエリルの最初の記憶は、鄙びた小さな里から始まる。
あの頃、ラトニはラトニという名前を持ってはいなかった。「みなしご」だの「おやなし」だのという名で呼ばれ、あちこちの里を転々としていた当時の記憶が所謂己の前世のものなのだと、ラトニは誰にも言ったことはない。
人ならざる色彩を有することになった二度目のラトニとは違い、確か最初にこの世に生まれてきた時のラトニは、髪も目もありふれた枯れ葉色をしていた。
生みの親がどうなったのかは分からない。或いはまだ幼い我が子を捨てたのかも知れなかったし、或いはとうに死んでいるのかも知れなかった。
いずれにせよ自分を生み出した者たちに家も財産も名前すら残されなかった少年は、ただ親無しの厄介者として使用人同然の扱いを受けながら、ひたすら里だの村だのを盥回しにされていた。
今となっては詳細などうろ覚えだが、その頃ラトニの生活は理不尽な暴力など決して珍しいことではなく、加えて大体いつも空腹だったような覚えがある。
二度目の時代もそうではあるが、当時は孤児など尚更良い扱いはされなかった。どうして自分がこのような目に遭わねばならないのか、どうすればこの状況を打開できるのかも、ラトニの頭は答えを導き出してはくれなかった。
ただ親無しと吐き捨てられるたび、親さえいれば自分はこうなってはいなかったのだろうかとぼんやり考えながら、雑用をして、日々を過ごして。
そうしてこのまま変わらない生活を送って死んでいくんだろうと思いながら辿り着いた、幾つ目の移動先かも分からない、山の中の小さな里。
一袋の麦と引き換えに買われていったその場所で、ラトニは一度目の死と、そして小さな太陽に出会った。
※※※
それは、名無しの少年が新たな主人となった里長に命じられ、薪を拾いに森を訪れた時のことだった。
木の下に落ちていた枝をあかぎれした手で拾い集め、溜め息をつきながら立ち上がって振り向いたと同時に、至近距離で逆さまになった人間の顔と目が合った。
「!?」
流石にビクッとした。
日頃薄気味の悪い無表情だと罵られていた少年の顔が、驚愕と戦慄に一瞬激しく引きつる。
何だか見てはいけないものを見てしまったかのような、指一本動かしてはいけないような気分になって、しばし少年はばっくんばっくん言う心臓を抱え、目の前の顔面と睨み合った。
「……」
「……」
「…………、」
「…………、」
「……………………、」
「…………………………誰キミ?」
こっちの台詞だ。
――なんか喋った!
再び訳の分からない戦慄に襲われる少年に、その人間?は逆さまになったまま器用に首を傾げてみせた。
冬眠明けの野生動物に対する心地でじりじりと数歩後退って見てみれば、どうやらその人物は少年と大して違わない年頃の少女のようだ。彼女は少年のすぐ背後の枝に膝を引っ掛けて、濃い茶色の髪が垂れ下がるのも構わず堂々とぶら下がっていた。
こちらを見詰める少し垂れた目は灰色で、どことなく呑気そうな印象を受ける。東方の血が入っているのだろうか、顔立ちはやや彫りの浅い造りをしていた。
よく見れば愛らしい容貌の少女ではあったが、この場でそんなことを気にする余裕など少年には微塵もない。
彼女がどうしてそんな妖怪じみた登場の仕方をしたのか、そしてわざわざ少年に気配を悟らせず木に登って逆さにぶら下がり、尚且つ少年が振り返るその瞬間まで至近距離で息を潜めて待機するなどという狂気的な行動に出たのか分からずに、少年は激しく混乱した。
「なんか里じゃ見ない顔だなー。キミ痩せてるけど七、八歳ってところだよね? 引っ越してきたの? 私のご近所さん? それとも里の秘密を探り出しに来た秘密組織のスパイ? 引っ越し蕎麦と侵入者警報どっちが必要な感じ?」
「…………」
緊張感の欠片もなくべらべらとまくし立てる少女に、少年は呆然とした。ヒッコシソバとかスパイって何だ。いや何となく文脈から推測できないこともないけど。
里の人間に逆らうことは、即ち少年が何らかの仕置きや報復を食らうことに直結する。一度唾を呑み込んで、少年は何とか表情を消し直した。
「……スパイとやらが侵入者のような意味を指すのなら、僕はそれではありませんよ。僕は五日前に、山向こうの村から……連れて、来られた者です」
使用人として、と付け足そうかと思ったが、真っ直ぐにこちらを見てくる少女の双眸(ただし逆さま)に気圧されるように言葉を濁す。
頭に血が上らないのだろうかと思いながら、少年は問いかける。
「と言うか、この里にはそんな重要な秘密があるんですか?」
「あっはっは、何言ってるのさ、私が知るわけないじゃない。そんなことこれからやって来るかも知れないし来ないかも知れない秘密組織の回し者に聞きなよ」
つまり無いんだな。
一々回りくどい言い方にイラリとするが、少年はその苛立ちを抑え付けた。
「……あの、御用がないようなら僕は行かねばなりません。里長様から薪を集めるようにと言い付けられておりますので」
そう言ってから、その台詞が自分の身分を暗示していることに気付く。
里長の元に連れて来られ、この年齢で働いている。そんなもの、厄介払いで受け渡される「親無し」だけだ。
舌打ちしたいのを抑えて小さく唇を噛み締めた少年は、ぺこりと一礼して踵を返す。きょとんとしていた少女は一度不思議そうに瞬きをして、それからにへらと笑った。
「そっかそっか、ちっちゃいのに偉いなあ! じゃあお姉さんが手伝ってあげよう!」
「は」
ぎょっと振り向きかけた少年に構わず、少女はぐるんと回って枝に腰掛けると、そのまま滑り落ちるように地面へと飛び降りた。
がっしと手を掴まれて、少年は何だか捕獲されたような気持ちになる。ぶんぶんと手を振ってみたが、異様にがっちり掴まれていて外れなかった。正直ちょっと怖かった。
「私は薬草を探しに来たんだ! 木の実と薪のお勧めスポットも教えてあげるから付き合いなよ、断ったらキミの耳元で執拗に蚊の羽音を再現するよ!」
「どうしてそんな陰湿な嫌がらせ考えつくんですか」
「その……不束者だけど、末永くよろしくね……?」
「何故でしょう、意味は分からないけど不快な気分になりました」
わざとらしく恥ずかしげな表情を作る少女に対して冷めた顔で言い返しながら、少年は引っ張られるままのそのそと少女の後を付いて行く。
こんな訳の分からない娘を相手に、生まれて初めて繋がれた手の温度に心臓が跳ねたことなんて、絶対に気取られたくないと思った。