ある日の事件
市内の少年野球連盟の春季大会へ向けて新しいチームでの練習が始まった。低学年の試合の方は一部二部別々に行われるが、普段の練習は合同だ。
一部チームは四年生が十名、三年生が八名の十八名。二部チームは二五名いるから総勢四三名だ。
相変わらず由華はパート勤務先のスーパーでの仕事が忙しく、他の母親のように練習を見たりお手伝いをしたりが出来なかった。他の母親は一日中ずっと練習を見ているかというと決してそうではなく、普段は朝の一時間程度のおしゃべりと夕方のお迎えだけである。 しかし、そのちょっとしたことの積み重ねが熱心さをアピールし、片やチームに協力的でない母親との大きな差を生んでいく。
夏は特に子供たちの熱中症に気を遣うので、当番になった母親はベンチまわりでも活躍し、普段あまり練習に顔を見せない母親との差は益々拡がっていく。
最初の練習試合から三週間経った日曜日、由華は仕事を休んで江戸川河川敷の練習場所に行った。ところがそこでは由華にとってどうにも我慢の出来ないことが起こった。
由華がグランド脇に姿を見せるなり、彼女はいきなり近づいてきた白井君の母親に横っ面を引っ叩かれたのである。八名の監督コーチのうち近くにいた四名が驚いて二人の方を見る。子供たちはグランドで練習しているので、そのうち何人が気がついたかよくわからないが、少なくとも数名の子供は動きを止めた。
「あんた! どの面さげて私の前へ来ることが出来るの? ええ?」
他の母親は全く驚いたような様子はないが、皆横を向いている。
由華は叩かれた頬を押さえながら、何といっていいか全くわからない。
――練習に付き合わないだけでこんな酷いことをされるの?
由華は冷静に考えていくらなんでもそんなはずはないと思った。ともかく聞いてみるしかない。
「何のこと?」
白井君の母親は由華を睨みつけてその後何も言わずに他の母親の輪の方へ歩いていった。
子供たちが練習している間中、由華は訳もわからないまま、ただ一人で皆と離れて立っていた。 子供たちも監督コーチたちも、何ごともなかったかのように大きな声を出して練習に没頭していた。知春はというと、グランドの奥の方で他の五人の子供たちと一緒に外野守備のノックを受けていた。内野練習では、マウンド上で鎌谷裕也君がピッチャーをしていた。
――知春、ピッチャーじゃないんだ。
由華は相変わらず野球オンチであったが、知春の守備位置がピッチャーから外野のどこかに変わったことだけは気が付いた。