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暗黙の了解

 三年がたった。

 知春はもう五年生になっていた。これまでの三年間、知春は練習試合でも公式戦のリーグ戦やトーナメント大会でも、試合と名の付くものには唯の一度も守備につくことはなかった。珠に訪れるチャンスにも代打として打席に立つこともなかった。知春が打席に立つ時はいつも大量リードされた場面の最終回でしかなかった。

 由華は試合の有無に関係なく、月に一度のペースでグランドに通い続けた。もちろん彼女に話しかける母親もコーチもいない。つらい思いをしてまで子供に野球を続けさせてきた、そこには彼女なりの意地があったのかもしれない。ただ、子供が苦痛を感じるのであれば辞めさせようと思っていた彼女にとって、いつも嬉しそうに練習をしている知春の姿は大きな勇気となっていた。


――あなたは心底野球が好きなのね。


 今は亡き夫も野球の話をする時はいつでも真剣で、そして楽しそうだった。由華はかつて増島総監督から少年野球時代の夫の活躍を聞かされていた。夫はその昔、レッドダイアモンズで五年間エースピッチャーとして活躍をしていたらしい。高学年の時はM市の選抜メンバーのエース・三番打者として県大会のベスト四まで勝ち進んだともいう。

 知春は確実に夫の血を引き継いでいると由華は感じた。

 知春の試合前のキャッチボールは相手チームの監督・コーチ陣をぎょっとさせることがあった。 明らかにレギュラーと異なる背番号十九番を付けて相手チームの目の前でする知春のキャッチボール。

 見るからに美しいフォームから繰り出される彼のボールは遠く離れた相手の胸のど真ん中へ糸を引くような見事な軌道を描いて相手のグローブへと納まった。

「うんうん。あの子は球の回転が素晴らしいですね。さすがはレッドダイアモンズのコーチの指導だけある」

 レッドダイアモンズの監督・コーチは対戦チームの監督にそう言われ、皆何となく苦々しい表情となった。


 増島総監督は、あの時の監督コーチ会議を境にユニホームを脱いでいた。レッドダイアモンズの試合を見に来ることもなくなった。しかし、彼はM市の少年野球連盟へはチームの総監督として登録されたままになっており、彼の現役時代の実績とともに監督としての指導力は関係者に定評があったことも理由になって、この年秋季トーナメント大会から連盟の理事の一人として加わることとなった。

 久々にユニホームを着て大会会場へ姿をあらわす増島総監督。レッドダイアモンズの監督・コーチのみならず、他のチームのスタッフも皆彼には一目を置いており、直立して脱帽し挨拶をしていた。

 知春が五年生となってからのチームは、六年生の青山君を主将とし、監督は低学年時代から繰り上がってきた青山監督が仕切っている。他の指導者も当時低学年のコーチだった鎌谷さんがヘッドコーチでコンビを組んでいる。今の六年生は青山君を初めとする強打者が三名揃っており、攻撃力は他のチームより頭一つ抜き出ている感があるが、投手を含む守備が頼りなく夏の大会では二回戦敗退となった。六・七年前のレッドダイアモンズは三二チームで争われるトーナメント戦で夏と秋の両大会で準優勝と優勝という輝かしい実績を誇った。

 今の六年生は一年上の学年にいい投手が数名揃っていたため、この学年では投手経験のある者がいなかった。そこで今年からリーグ戦も夏季大会もすべて五年生の鎌谷君が投手を任されていた。

 鎌谷君は低学年時代からそうであったが、素晴らしい速球の持ち主である。今では速い時には百二十キロを超える剛速球を投げる。相手打者はことごとく振り遅れ、ほとんどバットに触れることが出来ないほどである。 しかし、鎌谷君が勝てない理由ははっきりしていた。彼はランナーを背負うと突然ノーコンになりいつも決まって自滅するのだ。きわどいところにボールが外れるのではない。ホームベースの数メートル前でバウンドしたり、捕手が跳び上がっても届かないところへボールがいったりすることはざらだ。一年前低学年の大会で突然ストライクが入らなくなりマウンド上で泣いてしまったことがある。こうなると投手を続けさせることは出来ない。彼はいわゆる投手にあるまじき『ノミの心臓』なのである。あとを引き継いだ和田君はもともとボールの手離れが良くないので、ストライクを取りにいくと相手打者にとって最も打ちごろのバッティング投手同然となる。鎌谷君が崩れた時、監督は口にこそ出さないが心の中ではその試合を諦めるしかなかったのだ。

 それでも監督は、知春を投手に起用することはしなかった。そして、だれしも不思議に思う者はなかった。チーム内の暗黙の了解、というヤツであろう。

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