10 初めて何も奪われなかった感覚
30歳になる少し前、小学校の同窓会の案内が届いた。封筒は薄く、宛名は手書きだった。欠席の返事を書こうとして、ペンが止まった。理由はなかった。ただ、参加してもいい年齢になったのだと思った。
会場は駅前の古いホテルだった。天井が低く、声が反響する。名札をつけて、立食の料理を眺めていると、後ろから声を掛けられた。
「ああ、えっと君は…」
振り返ると、あの国語教師だ。白髪が増え、背は少し縮んだように見える。
「久しぶりだね。元気そうじゃないか」
あたしは頷いたが、まだ名前は呼ばれなかった。
「いま、何をしてるの?」
あたしは職種だけ応えて、社名は知らせなかった。
「そうか。うん、真面目だったもんな」
その言い方は昔と同じだ。暫くの間、当たり障りのない世間話をした。先生からは、教え子の近況、学校の統廃合、退職が近いことなどが伝えられた。会話が途切れたとき、あたしはあの言葉を思い出していた。
〈文章がかわいそうだよ〉
そのままにして帰ることもできた。おそらく先生は覚えていない。あたしは徐に人差し指をこめかみに充てて訊ねた。
「先生、覚えていますか?あたしが音読したときのこと」
先生は一瞬考え込むような顔をしてから曖昧に笑顔を見せた。
「たくさんあったからねえ…」
「そうですよね」
あたしはバッグから小さなメモ用紙を取り出した。そこには日付、場所、そのときの様子とその言葉が書かれている。
「この日、先生はこうおっしゃいました」
読み上げはせず、ただ差し出した。それをじっと見つめていた先生はしばらく黙っていたが、あたしの顔を見て独り言のように呟いた。
「そんなつもりじゃなかったんだ…」
あたしはどこかで何度も聞いてきた気がした。ほとんどの場合、そのあとに理由は与えられなかった。あたしは先生の目をしっかり見て、わずかに微笑みながら頷いた。
「分かっていますよ」
悪意がなかったことは最初から分かっていた。
「ただ、ひとつだけ言いたいことがあります。あれから声を出すのが怖くなりました」
先生はあたしの顔から目を逸らしたまま、何も言わなかった。周囲のざわめきが少し遠くなった気がした。
「今日はそれだけです」
私は差し出したそのメモ用紙を手元に戻し、頭を下げた。
「きょうはお会いできて何よりでした。ありがとうございました」
謝罪は求めなかった。説明も要らなかった。胸が軽くなったわけではなかったが、きょうは何も奪われなかった。それはあたしにとって初めての感覚だった。




