1 あたしのせいではない
そのノートを、あたしは「覚えとけよノート」と呼んだことは一度もない。表紙には何も書かれていなかったし、誰かに見せるための名前も必要はなかった。
最初にこのページを書いたのは、小学校6年生の6月だった。国語の授業だったと記憶している。音読の順番が回ってきて、教科書を持つ手が少し震えた。緊張していたのではない。ただ、間違えたくなかっただけだ。前の日、家で母の前でも読んで、句読点のところで息を吸う練習もした。
読み終えたあと、先生は教卓に肘をついて、少し笑った。
「今の聞いた? こういう読み方をすると、文章がかわいそうなんだよね」
教室の空気が一斉に動いた。机を指で叩く音、誰かの小さな笑い声、後ろの席から聞こえた「きつっ」という囁き。そのあと先生は何も言わず、訂正もしなかった。もちろん、あたしの名前を呼ぶこともなく、次の子を指名して、授業はそのまま進んだ。あたしは椅子に座ったまま、教科書の文字を睨んでいた。文字は何か言い返してくれるはずもない。結局、誰も、そして誰にも、謝らなかった。先生も、クラスメイトも、あたし自身も。
その日の夜、引き出しの奥にあった古いノートを手に取った。買った記憶はあるが、何故か使う機会もなく、そのまま忘れ去られていたのだろう。表紙の色だけは覚えている。薄い紺色だった。感想を書くつもりではなかった。あたしは怒りを表現する言葉をまだ知らなかったから。だから事実だけを書いた。日付。場所。言われた言葉。6年の担任名。書き終えても、胸の奥がざらついたままだった。最後に一行だけ書き足した。
《忘れないこと。これはあたしのせいではない》
それがこのノートの最初のページだった。ノートは机の一番下の引き出しの奥にしまい込んだ。




