第1話 見て分かるだろう
今年で齢十八になるアニスロッテ・クラウゼン男爵令嬢。月光を浴びた滝のような銀髪を長く伸ばし、瞳は暁の一瞬を切り取った菫色。
嫡男の兄が家業で屋敷を留守にするため、長女として実家を守る役目を背負っている。裕福な収入があるにもかかわらず、家庭菜園と刺繍という、いたって当たり障りのない趣味を嗜む、静かで穏やかな暮らし。
目下の困りごとといえば、男爵家という家格の低さを気にする兄が、アニスロッテを政略結婚させようと隙あらば持ち込んでくる釣書の数々。
言わずもがな、男爵は爵位の中で最下位だ。兄がアニスロッテをより上位の貴族家と結びつけようとするのは当たり前。古くから続く伝統ある貴族家は、クラウゼン家のことを「金で爵位を買った成り上がり貴族」と揶揄し眉をひそめることも少なくない。だがしかし、アニスロッテは兄の劣等感を解消するための道具ではない。
そして、その最下位である男爵家の令嬢が王太子妃候補とまでされているのだから、どうにも飛躍が過ぎる話である。
──それはさておき。
「ソーミャ、今日こそあの部屋を開けようと思うの」
「書斎ですか? でも、鍵は……」
父の書斎の片付けは手付かずだ。
「返ってきたのよ。警吏署から、ようやく。父様が宿に忘れていたやつ。事故の後、ずっと警吏が保管していたらしくて」
「お嬢様がよろしければ、私もご一緒しますわ」
埃をかぶったクラウゼン男爵の書斎、鍵付きの引き出し。幸いなことに鍵は男爵が宿に置き忘れていたため無事だった。事故の際に物証として警吏署に保管されており、つい先日に返還されたばかり。屋敷にいたアニスロッテが、警吏から直接、躊躇いがちに受け取った。受け取ってしまえば父の死が確定するようで、胸が痛んだ。
「遺言書が入っているなら、この引き出しでしょう」
静まり返った書斎。壁掛け柱時計のコチ、コチ、という針音だけがやけに響いた。執務机に備えられた引き出しを恐る恐る開けると、鈍い手応えと共に、一枚の茶封筒に入った書類が見つかる。丁寧に男爵家の紋の封蝋が施してあり、表書きには父直筆の署名まである。
「……やっぱり、これが遺言書ね」
ソーミャら使用人が立会いのもと、震える手で開封すると、一枚の紙だけが中身だった。
「セレスタン兄様のいない場所で遺言書を開封してしまったけれど、緊急性があるかもしれないし、使用人たちがいるし……別に良いわよね」
筆まめな父にしては遺す言葉が少ないとわずかに落胆するものの、気を取り直して紙の上の字に目を通していく。筆跡はやや右上がりの父のもので間違いなく、そこに違和は覚えなかった。
『デュラン・アルセイル卿が無事に帰還してきたなら、身元引受人になって欲しい。
皆を愛しているよ。
クラウゼン男爵エドリアン』
相続についても財産分与についても一切記載のない遺言書。それを握るアニスロッテの指先がじんと冷たくなる気がした。思わず力がこもって皺を入れそうになるが、なんとかこらえる。
「デュラン・アルセイルって、あの『血染め卿』のこと!?」
──敵からの異称「血染め卿」。
──王国軍准将・戦線騎士部隊副長。
──七年戦役における最高受勲者。
倍の軍勢に奇襲戦で勝利を収めたとか、猛将を馬上から一刀に斬り伏せたとか。そんな危険人物がこの屋敷に来る? アニスロッテの庇護下で?
そう、あの騒動。一介の貴族令嬢であるアニスロッテすら知っている。何を言おう彼は、上官である王国軍中将に反抗して殴る暴力事件を起こし、受勲をたちまち取り下げさせた男として、悪評と伝説と共に巷を賑わせる話題の人物である。
「そんな恐ろしい人の身元引受人だなんて到底、正気の沙汰とは思えないけど。……でも! 物凄く……面白そうじゃない……!」
その血染め卿とやらがどれほど恐ろしい人相をしているのか、アニスロッテはふいに見たくなってきた。
♢
──翌朝のクラウゼン邸。
いつも通り菜園の手入れを終え、朝食を済ませた頃。ちょうど陽が高く昇り始める午前の時間だ。樫の木を切り出して磨いた丸テーブルに頬杖をついて、アニスロッテは「ううん」と唸った。硝子ティーポットからは香りのいい湯気が立ち昇り、中には瑞々しい緑色の茶葉が揺蕩っている。
「兄様は……人の心をお持ちかしら?」
せっかく菜園の収穫で朝食にはミントティーを贅沢に淹れたというのに、清涼な香りと心はかけ離れ、好奇心に浮ついて落ち着かなかった。
運営する貿易会社にほど近い、別の屋敷に住まう兄セレスタン。遺言書を開封した昨日の午後には内容について判断を仰ぐ書簡を送ったので、この朝一番に返事が届いた。その内容は至極簡単なもの。
『アニスロッテ
デュラン・アルセイルとかいう騎士を家に連れ込むことは決して許さん。おまえは妙齢の娘だぞ。そんな乱暴な男など放っておけ。両親を亡くしたばかりだというのに。
セレスタン』
これでは過保護過干渉だ、とアニスロッテは兄に呆れかけた。
「お嬢様、本当に行かれるおつもりで?」
女中ソーミャの問いかけに、アニスロッテは嬉々とした表情でうなずいた。
「ええ、行かなきゃいけないと思うの。兄様のことなんて知りません!」
クラウゼン邸から王都軍務局までは馬車で約二十分。クラウゼン家の紋章を掲げた御用馬車に揺られながら、アニスロッテは胸の内の興奮をなだめるように、ミントの精油で香り付けしたハンカチを握り込んでいた。
「悪名高い『血染め卿』の身元引受人だなんて、本当に正気を疑うし、現実すら疑うけど。でも、冷やかしには面白いでしょう」
軍務局の建物は重厚な灰白色の石造りで、気圧されそうなほどの威容を放っていた。高い塔と鉄柵、無骨な兵士たち。平時には、軍法違反者の裁判や聴取が行われるが、今は戦後まもなく、懲罰牢には前線の兵士たちが次々と送られてきていると聞く。裁かれる罪状は上官への反逆、部下への暴行、捕虜への虐待、などなど物騒極まりない。
「クラウゼン男爵令嬢アニスロッテ様ですね」
二人の案内に現れた軍務局士官は、淡々とした表情で出迎えた。よく眠れていないのか、目の下の隈が戦後処理業務の忙しさを物語っていた。
「牢はこちらです。……地下に入ったら、あまり余所見をなさらないでくださいね」
こつり、こつり、と先を行く案内係が軍靴の足音を虚ろに響かせた。地下階段を下りた先の空気は冷たく、じっとりと湿っている。それに錆びた鉄の匂い。油灯の明かりに映し出された足元の影が揺らめく。饐えた匂いすら恐れず、興味津々の塊となったアニスロッテは微笑みすらたたえて案内係についていく。
そして、案内係がとある牢の前で立ち止まる。追いついたアニスロッテは中を覗き込み、その人物を見た。
「……っ!」
鉄柵の向こう。粗末な簡易寝台の上に腰掛け、裸の上半身を晒したまま、自らの腹部の傷を……針と糸で縫っている男の姿。
肌は日焼けしてほのかに浅黒く、白い傷跡が交差していた。流れるような筋肉の稜線。鋭利な刃のような骨格。
「何を、しているのですか……!?」
視覚情報から治療行為だと判断できた。驚きの声を上げるアニスロッテ。男はそれを愉快に思ったのか、湖水のように透き通る碧眼を向け、ほんの少し片眉を上げた。そして、一言。
「見て分かるだろう、裁縫だ」