1.婚約破棄から家を出るに至るまで
ここは王宮の婚約者の部屋。人払いされて、ふたりきりの空間。
普通であれば、甘い時間が流れるであろうシチュエーションなのだが。
「イレーシュア・フェンゼル!其方との婚約を破棄する!」 びりっ。
「……え?」
私は、突然の宣言と破かれた契約書を見て呆然とした。
目の前で仁王立ちしているのは、物心つく前から婚約している、アリウス殿下。この国の皇太子だ。
そして私は、筆頭公爵家の長女として生を受けた、イレーシュア。
この婚約は誰の目から見ても当然のものだった。なのに彼は、
「殿下、わたくし目も耳もおかしくなってしまったようです。もう一度、今なんとおっしゃったか伺ってもよろしいでしょうか?」
「はあ…。私と、其方との婚約を破棄すると言ったのだ」
…どうやら本当のようね。
「了解いたしました」 私は綺麗なお辞儀をした。「それでは、わたくしは下がらせていただきます」
「お、おい待てイレーシュア」アリウス様は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。「もうちょっと理由を聞くとか、引き止めるとかなにかあるだろう」
「いえ、もう契約破棄した以上、婚約者でもない男性の部屋に留まるのは憚られますので、失礼します」
ばたん。
……ふう。なんだか、呆気ないものね。
「あれ?イレーシュア様っ!こんにちは!」「あら、ネリー様。ごきげんよう」
こちらは男爵令嬢のネリー・レイア様です。
「アリウス様とお話されていたのですか?」「ええ」「どのようなお話でしたの?」
「わたくしたち、婚約を破棄いたしましたの」「まぁ…」
可哀想に、とでもいいたげな表情を作っていますが、目の輝きは隠しきれていません。
…まぁ、それもそうでしょうね。彼女はアリウス様と恋仲なのですから。
アリウス様は理由を聞いてほしそうにしていましたけれど、聞くまでもなく誰もが知っていることです。
生まれた頃からの婚約者と、身分違いの恋人。彼は迷いなく恋人の手を取りました。
わたくしは恋を知らないので、それほどまでに感情のままに動けるということを不思議に感じます。
…仮にも貴族、そして皇太子である以上、結婚相手との身分の釣り合いは重視しなくてはなりませんのに。
「それではわたくしは失礼いたしますね」「はい、お大事にしてください」
…心にもないことでしょうに。きっと彼女が、誰よりもこの婚約の破棄を喜んでいるだろう。
「お父様、ただ今戻りました」「イレーシュア、おかえり。アリウス様のお話とは何だった?」
「……わたくしとの婚約を破棄する、というお話でしたわ」「……え?本気なのか?」
「ええ。目の前で契約書を真っ二つに引き裂かれました」「…………はあ〜〜〜」
…分かりますお父様。私もため息をつきたいです。
「それでイレーシュア。これからどうするつもりなのかな?」「少し、考える時間が欲しいです」
「分かったよ。何かあれば、またいつでも相談に来てくれ」「ありがとう存じます」
……ふああああ。
私は大きなため息をついた。淑女らしさ?知ったこっちゃない。
ここは私の部屋だし、人払いもしてあるから、誰にも気兼ねしないでいいのだ。
…正確に言うと、部屋にはもう一人いる。
2つ年上の幼馴染で筆頭護衛騎士のエリオットだ。
「うう、エリオット〜〜〜」今日は心が疲れたので抱きつく。
エリオットは黙って頭を撫でてくれる。何かあるたびにこうして甘えているので、
お兄ちゃんがいたらこんな感じだったのかなと考える時がある。おちつく。
「イレーシュア様、アリウス様のことは…」「別にいいのよ、ちょっとだけ悲しいけど」
…なんせ私の記憶のあるすべての過去において、私はアリウス様の婚約者だったから。
婚約者としての関わりは最低限であったとはいえ、さすがに感傷的にもなる。
ふと見上げると、黒にも見えるような深緑の目と目が合った。
安心させるようににっこりと微笑んでくれる。包容力の塊だ。
角度によって銀色にも青にも見えるさらさらの髪が、シャンデリアの灯りできらきらとしていてとても綺麗だ。
「イレーシュア様は、また新しく誰かと婚約なさるおつもりで?」「…いいえ」
……私はすでに18歳。この年で新しく婚約をするというのは、とてもハードルが高いのだ。
現実的に厳しい。それに、
「私はもう、これ以上何にも縛られず自由を満喫したいの。婚約なんてこりごり。自由になりたい」
…貴族の長女としてあるまじきことを言っている自覚はちゃんとあった。けれど、嘘偽りのない本音。
エリオットにだけは吐き出すことができた。
数秒の沈黙。
「イレーシュア様……」エリオットは、何かを迷っているように見えた。
「どうしたの?」彼は、深呼吸してから、決意をした目で私を見た。
「…でしたら、どこか遠くに行きませんか?」「…え?」
「身分を捨て、人里離れた場所で静かに暮らしましょう」「それは…」
戸惑った。私は今までずっと『公爵令嬢イレーシュア・フェンゼル』として生きてきたから、それ以外の生き方を知らない。
もし、この手を取ったとて、私はやっていけるのだろうか。
「私と共に、何にも縛られない生活を送りませんか?」
けれど。私はエリオットの前では、ただのイレーシュアとして過ごすことができる。
彼となら、新しい人生をやっていけるという予感がした。
しばし考えた後、私はエリオットの手を取った。
翌日の朝食の席で。
「お父様、わたくしはもう身分や婚約に縛られたくございません。どこか、人のいないところで静かに暮らしたく存じます」
「………分かった。後始末は引き受けよう」「ありがとう存じます」
「しかし、女一人で行くつもりか?危ないぞ」「エリオットを連れてまいります」
「……ああそうか、だとしたら今回のことは渡りに船か……けれど父様は寂しいぞ、渡したくない……」
「…?何を一人でぶつぶつ言っているのです?」「いやいい、エリオットと行くのであれば安心だ」
こうして、私は家を出ることになったのでした。
また続きを出すので、良ければお待ち下さいm(__)m