帝国の忘れ物 上
メイは走った。どこまでもどこまでも、狂ったように走り続けた。
いや、真実狂っていたのかもしれない。はじめてできた、家族以外の特別な人をなくして。
その人を見殺しにして逃げている事実を直視できず、走り続けた。
夜が明けて太陽が真上に差し掛かるころには山地の奥深くへと入り込んでいた。すでに人家はなく、うっそうとした木々に囲まれ、鳥のさえずりばかりが聞こえる。
そしてとうとう倒れた。見ず知らずの土地で、体力も気力も尽きて動けなくなる。
(死ぬのかな、こんなところで)
寝返りをうって仰向けになる。空は見えず、幾重にも重なる葉が日光を遮っている。
「だれだ」
不意に声が聞こえた。
首だけを動かして周囲を見るも、だれもいない。
幻想かもしれない。なにせ不眠不休で走り続けたのだ。疲労は極まり、眠気で頭は働かない。
「だれか」
だがその声は確かに聞こえる。腕で体を支え、上半身だけでも起こした。
正面の枝が揺れた。驚いて見ていると、さらに揺れは大きくなり、人が現れる。
「帝国、人……?」
思わず声を漏らした。
現れたのは長身の女性。くすんだカーキ色の軍服。黒いヘルメットに、首からかけた小銃を両手で持っている。腰回りには弾倉と銃剣。
軍人はにやりと歪に笑う。
「おうよ。驚いたか?」
もちろん驚いた。だがそれ以上に、人を見たことで安堵する。
メイは女性に手を伸ばし、意識を失った。
まどろみの中、心地いい感触に包まれていた。いつもの床と違って柔らかい。
いつまでも眠っていたいが、習慣が二度寝を許さない。意識が戻るなり体を起こす。
知らない場所だった。木製の床と壁。眠っていたのは荒い繊維で編んだマットと、同じ素材の布地に柔らかいものをつめた枕。
寝心地がいいはずだ。こんなもの、党の支配下ではよほどの高官でないと使えない。メイにとっては伝説で耳にしたことがある程度の存在。
「目が覚めたか?」
そこでようやく正面に座る人物に視線が行った。
気絶する前、出会った軍人の女性。
「マヤだ。そっちは?」
「メイ……」
「そうか。腹減ってるだろ。とりあえず食え。話はそれからだ」
出されたのは生まれてはじめてみるようなごちそう。焼いた巨大な肉。果物と固いパン、そして水。
もはや疑念も不安も吹き飛んだ。メイは水を一気に飲み干し、肉にかぶりつく。弱った胃腸の悲鳴など無視してすべて口の中に押し込み、顔中に果汁をつけながら果物を種までむさぼり食った。
「ほら、拭けよ」
手拭いを渡され、口周りを拭く。
「そんなに腹減ってたのか」
まだ飲み込めず、メイはうなずいて返事をする。
一服すると考える余裕も出てきた。
「あの、マヤさんは、何者ですか?」
「まあ、そうなるだろうな。帝国陸軍第4師団、第一大隊、大隊長のシグレ・マヤ中佐だ。見ての通り軍人だよ」
メイがゆっくりとうなずくと、マヤは説明を続ける。
「戦時中、ここらを拠点にしてた部隊だな。終戦時に全軍帰国するはずだったんだが、私らみたいに取り残されたのもいる。革命党に登校して武器と弾をくれてやるのも癪だからこうして山奥で自給自足してるんだ」
そんな人たちがなぜ現地の人間であるメイを捕まえたのか、その答えはすぐにわかった。
「……情報、が欲しいんでしょ?」
「なんだ、わかってるのか」
「敵地に取り残された軍人が、敵国人を丁重に扱う理由なんてそれしか考えられないじゃない」
「へえ。お前、年は?」
「16だけど……」
言うと、マヤは感心したようにうなずく。
「それでこの適応力か。いや、頭脳に年は関係ないのかな」
マヤは笑うが、メイは必死になって頭を回していた。
この状況、うまくすればランファンを助けられる。
ランファンは言った。ちゃんと生き延びて、いつか助けてと。
その‘いつか‘が、今、手に届くところにある。
メイは頭を下げて言った。
「お願いがあります」
「おかわりか?」
「友達を助けてください」
「……それは軍人の力を使わなきゃ助けられないって、意味か?」
メイは首肯する。
「党内部の権力争いで、州の長官の娘である友人が政敵にとらわれました。これからあたしの話せる情報に、その価値があるのなら、友人を助けてください」
「無理だ。私らには使える弾薬が限られてる。無駄な使い方はできない」
メイは唇をかんだ。やはり頼んでも無理か。
わかりきっていたこと。だが相手のことを知らないままではどんな手が有効かすらわからない。
だから、次に打つべきは相手から反応を引き出すための一手。
どうすべきか考えていると、以外にも相手からそのために機会を与えられた。
「ま、いきなり知ってること洗いざらいはけなんて言わねえよ。メシも済ませたし、体でも洗おうぜ。私もちょうど背中がかゆかったところでな」
願ってもない申し出。
メイはマヤに従い、川へと向かった。