6.豊臣政権の崩壊 -1
文禄2年8月3日。豊臣秀頼が誕生。
待望の正当な後継者の誕生に国内は沸き立つ。
秀吉も自らの子を諦めていただけに秀頼を溺愛するようになり、唐入りに対する興味を急速に失うことになる。
そして、この頃から豊臣秀吉は新築された伏見城に母子を伴って移り住む。
秀吉は聚楽第に秀次を、大阪城に秀頼を、伏見城に自分を置いて秀頼と秀次の仲を取り持とうと考え、日本の5分の4を秀頼に譲り、残りを秀次に譲るという案を周囲に伝えていた。
しかし、この時期から秀頼の母である淀君の派閥が拡大し、豊臣政権における派閥争いが加速。
秀吉の養子の立場が一変し、政権内における派閥関係が悪化の一途を辿る。
秀次に次ぐ後継者候補とされていた豊臣秀秋が、突如小早川家の養子として送られ小早川秀秋になるなど秀吉の養子に対する扱いが変わってきたのだった。
とはいえ、この時点で秀吉は秀次の娘と秀頼を婚約させるつもりで、秀次を次期後継者とする計画を持っており、豊臣政権はギリギリのところで保っていた。
秀吉は秀頼の誕生後から秀次の担当である国内政治に口を出し始めるが、陰陽師を弾圧したりとよく分からない施策を実施しており、秀次は同時期に弟を亡くしたこともあって心労から喘息のような咳に悩まされることとなる。
なお、陰陽師への弾圧はその後も続き、従前の陰陽道の再現が不可能になるまで追い込まれる。
しばらくして、秀吉・秀次の関係に終止符を打つ事件が起きる。
文禄4年2月7日。会津若松92万石を治める蒲生氏郷が死去。
氏郷の嫡男である秀行が13歳だったため、筆頭家老の蒲生郷安が補佐役となるが、政務を独占するなどして家中で対立が発生。
これは最終的に蒲生騒動と呼ばれる事態へと発展する。
この事件により2つの問題が発生する。
1つ目は東北の監視である。
蒲生家は未だ火種が燻る東北の監視を任されていたが、氏郷の病死により監視体制が機能不全に陥る。
肝心の蒲生家は家中で争っており、東北で何か起きたとしても対応できる状況になく、豊臣政権は早急に監視体制を立て直す必要に迫られていた。
2つ目は氏による権力管理の失敗である。
氏とは源氏や平氏のように、朝廷が認めた血縁集団を示す。
氏と名字は別物であり、秀吉も正しくは豊臣氏の羽柴秀吉となる。
そして一門衆の少なかった秀吉は、豊臣や羽柴の名を広く与えることで豊臣氏の権勢強化と管理を目指しており、徳川家康や上杉景勝といった外様の大名たちにも豊臣の氏を与えていた。
蒲生家は豊臣家に倣い、蒲生郷安を始めとして蒲生の名を広く家臣に与えており、蒲生家が内紛を起こすということは氏による組織管理を目指した秀吉の計画頓挫を意味していた。
この蒲生家の対応について、蒲生家の減封を進めようする秀吉と、所領安堵を進めようとする秀次が対立していた。
そして2人が言い争うのを徳川家康は冷や汗を流しながら見守っていた。
「蒲生家の新当主は若すぎ、東北の監視を任せるには力量が足らん!家臣もまとまりがない以上、速やかに別のものを会津に入れるべきじゃ」
「なりません!所領安堵は大名たちの何よりもの願いです。過失もなく90万石もの大領を取り上げれば示しがつきません!」
「だからこそじゃ。混乱が収まらぬ東北だけではなく、会津でも内乱が起きようものなら取り返しのつかぬことになるわ!」
「危険があるからといって排斥しようものなら、他の大名たちの信頼を失います。東北・会津だけではなく、全国各地に火種をばらまくようなものです!」
「当主が若いからとおざなりにし、家臣が好き勝手に振る舞うなどあってはならんことじゃぞ!」
「仰ることは分かりますが、国内統治は関白が差配すると決めたのは秀吉様にございます!」
言い争いは収まること無く、いつ刃傷沙汰になってもおかしくないほど険悪な空気になる。
家康もこれ以上捨て置けないと判断し、2人に割り込んでいく。
「ご両名お待ち下さい!それぞれの言い分はごもっともかと思われます。ただ、このたびの問題は蒲生家に統治能力があるかどうか。減封はいつでもできますので、まずはそれについて調査を行ってはいかがでしょうか?」
「むう...」
「それは確かに...」
「某も江戸に入り、調査の助力を行います。その結果が出るまで今しばらくお待ち下さい!何卒!何卒!」
「家康殿がそこまで言うのであれば...」
秀吉と秀次も、ひたすら頭を下げ続ける家康の姿を見て頭が冷え、一旦は調査結果を待つということで決着を迎えた。
秀吉が退席した後、家康は秀次に話しかける。
「秀次殿、蒲生家が一時的にでもまとまれば減封の話は避けられるでしょう。某からも内密に話を通しておきます。申し訳ありませんが調査のご手配をお願います」
「助かります家康様。もし減封ともなれば九州を始めとする各地で乱が起きかねません。何としても回避できるよう努めましょう。私の方から前田様に調整役をお願いしておきます」
後日、家康は対応に走り回る。
蒲生家の当主が若輩であっても、家臣団が一枚岩となり、従前の通り役目を果たせるのであれば減封は明らかにやり過ぎである。
とはいえ、秀吉がここまで厳しい対応をするのは、若い秀行と好き勝手にする家臣の姿を見て、生まれたばかりの秀頼の将来を不安に感じている面もあるだろう。
また、会津若松で内乱が起きれば笑い話では済まないという秀吉の意見は最もであり、唐入りで不満を抱えた各地の大名たちに決起させるきっかけを与えかねない。
新当主の蒲生秀行には家康の娘を嫁がせる予定であり、この先何かあれば徳川にも延焼する危険もあった。
「豊臣政権を守るだけではなく徳川のためにも、なんとしても領地の相続、せめて転封で済むように軟着陸させねば!」
そんな覚悟を決めた家康に調査の一次報告が届く。
そして、それを見た家康は力なく倒れ込む。
「蒲生家からの石高報告書に不正の痕跡あり。追って調査が必要」
「終わった...」