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第32話 世話の焼けるご主人様だよなあ、ほんと


「すみません。帰る前に少し用事を済ませてくるので待っていてもらっていいですか?」


 授業が終わって帰宅の準備を進めていた俺のところにやってきた那月が、申し訳なさそうに連絡を伝えてくる。

 こちらとしては那月が主人である以上、断る理由がないため送り出そうとしたのだが――なぜか今日に限っては用事の内容が気になって仕方なかった。


 そう言う迷いが顔に出ていたのだろうか。

 那月に耳を寄せて欲しいと求められ、その通りにすると「体育館裏にいます。心配でしょうけど、来てはいけませんよ?」と微笑み交じりに囁かれた。


 体育館裏――そのワードだけで那月の用事を把握する。

 誰かが那月に告白をする……そう考えただけで、俺は胸にもやもやとした何かが溜まっていくのを感じながらも「早く行ってこい」と不愛想に送り出す。


 教室から那月の背中が見えなくなったところで、俺は重いため息を吐いていた。


 我ながら本当に意気地がない。

 那月はこれまでも告白されてきたし、全部を断わってきた。

 それは好きな人……俺がいるからなのだと、一年の頃に教えられたこともある。


 那月の気持ちが変わっていないことは一緒にいる間もずっと感じて、理解しているつもりだった。

 だけど、もしも、万が一にも那月が告白を受けてしまったらと想像するだけで、胸にぽっかりと穴が開いたような気分になる。


 嫉妬、それから独占欲。

 表に出すには躊躇われる醜い欲求に基づいた思考ばかりが浮かんでは消えを繰り返して、酷く憂鬱な気分になってしまう。


 俺は元からこんなだっただろうか。

 自分のことさえ見失ってしまいそうだった。


「おいおいおい。授業が終わって気楽な放課後だってのにそのしけた面はなんだよ。あ、さては舞咲が告白されるのを知って凹んでるとか」

「……なんで放課後になってまでお前にうざがらみされないとならないんだよ、治孝。帰宅部だろ? さっさと帰れよ」

「紅は可愛げなねぇなあ。帰宅部は別に帰りたいからやってるわけじゃねーぞ? 部活よりも面白いと思ったことをやるために帰宅部やってんだ。今日で言うなら、舞咲が告白されることを知ってNTR気分を感じている誰かさんを鑑賞するとかさ」

「言ってることが最悪な自覚あるか?」

「あー、すまん。そうだよな。お前みたいなのはNTR無理だよな。俺? 結構いけるんだよ、あれ。自分の彼女が他の誰かに取られて――って言われても何一つ感覚がわからんからただの恋愛ものにしか見えん。だって彼女いたことねーし。いたことねーし!!」


 叫ぶなうるさい少し黙ってくれ。

 治孝はわざわざこんな話をしに俺のとこまで来たのか?

 本当は暇だろこいつ。


「んで、結局どーよ」

「……どうって、何が」

「しらばっくれなくてもいいんだぜ? 俺とお前の仲だろ?」

「大して深くも浅くもない仲だな」

「本気で言ってんなら傷つくぞ? わんわん泣いちゃうぞ?」

「傷つきもしなければ泣きもしないだろ。喚きそうではあるけど」

「本当に俺のことをよくわかっていらっしゃる。この程度で泣いてたら女の子に振られるたびに世界が俺の涙で氾濫してるっての」


 よよよ、と下手くそな泣き真似をする治孝。

 まだ周りで帰宅の準備をしていた女子生徒がそれを聞いたのか、まるでゴミを見るような視線を治孝に浴びせていた。

 俺に向けられていないとわかってはいるけど、心臓に悪いので治孝は離れたところでやっていてほしい。


「……自分でもよくわからないんだよ。那月が人気になるのは喜ぶべき、だと思う。でも、現状は素直に喜べてないし、様子が気になってうずうずしてる。こんなの初めてなんだよ。いつもはすぐ帰ってくるだろうなと心配もしてなかったのに」

「そんじゃあ見に行ったらいいじゃんかよ。舞咲の相手に申し訳ないってんなら体育館裏が見える校舎の廊下からでもいいさ。時々見えるしな、あそこ。プライバシーもへったくれもないぜ?」

「……いや、だってさ、そんなの知られたら嫌だろ」

「そうかねえ。俺の考えばかり当てにするなとは先に言っておくけど、好きな人が自分のことを心配して様子を見に来たって知ったら、多分嫌な顔はしないんじゃねーかな。そも、舞咲と紅の仲だろ? ほぼ幼馴染みたいなもんじゃなかったか?」


 治孝は一転して真面目な雰囲気のまま言うけど、それはわかっているつもりだった。

 那月は俺が告白を受ける様子を見に行ったところで怒るとは思えない。

 それどころか嬉しそうにしてる光景が目に浮かぶ。


 ――そんなに私が誰かに取られるんじゃないかって心配だったんですか? なんて、からかい交じりに笑われてしまいそうだ。


 そこまでしたら重いと思われてしまいそうだな、と考えたけど、そういえば明日香から体育館裏に呼び出されたときは那月が近くに隠れてたな。

 あれには本当に呆れてしまったけど……でも、ちょっとだけ嬉しかった。


 自分のことを本当に想ってくれているんだと実感できてしまったから。


「……だからしんどいんだろうな」


 ぽつりと、近すぎるが故の弊害を口にして。


 廊下の方から、キキーッ! という凄い音が聞こえたかと思えば「神奈森先輩っ!!」と聞き覚えのある声が俺の名前を呼んでいた。

 声の方へ顔を向けると、そこにいたのは息を切らしながらも必死な形相をしたサイドテールの後輩――明日香。


 なんとなく、嫌な予感が足元から這い上がってくる。


「はぁ……っ、神奈森、先輩っ!! 那月先輩がっ!!」

「……那月が、どうかしたのか」

「その、廊下からちょうど体育館裏が見えて、そしたら那月先輩が倒れてて――神奈森先輩っ!?」

「おいっ!?」


 那月が倒れていた。


 それを聞いた瞬間、アクセルを一気に踏み込んだ車のような加速度で走っていた。

 治孝と明日香の声が遠ざかるのも気にせず、頭の中で体育館裏への最短距離を導きながら、そこへ向かって一直線に駆け抜ける。


 一分とかからずに俺は二階の体育館裏が見える廊下に到着し、そこの窓から見下ろすと――見知らぬ男子生徒とつかず離れずの距離を取ったまま佇む那月の姿を視界にとらえる。

 明日香は倒れていたと証言していたけど、嘘をつく理由がない。


 窓を一気に開け、縁に足をかけると、躊躇いなくそこから飛び降りる。

 礫の敷かれた地面に受け身を取って着地すると、その音に気づいて振り向いた男子生徒がぎょっと目を剝いていた。


 だが、俺は彼には目もくれず……正確には気を配る余裕がなかったのだが、那月の尋常ではない様子に息を呑む。


 火照ったように赤く染まった顔は艶やかにも映るが、その実、酷く歪んでいた。

 はあ、はあ、と途切れた息遣いが数メートル離れたここまで聞こえてくる。

 逆らえない力に押し出されるように、少しずつ、那月は足を引きずるようにして距離を縮めてきた。


 普段よりも鮮やかに……ともすれば爛々と煌めいて見える緋色の瞳の奥には焦げるような熱量と、深い欲望が渦を巻いていて。

 けれど、意志の力でどうにか押しとどめているような雰囲気もあった。


 ――吸血衝動。


 俺が離れた場所にいて、他の誰かが近くにいるという最悪の状態で発生してしまったらしい。


 だが、那月は意志の力で衝動を可能な限り抑えようとしたのだろう。

 自分の手を潰すように握っていて見えにくかったが、左手薬指の爪が剥がれていて、痛々しく血が滲んでいた。


 恐らく吸血衝動を自覚した那月は告白をしに来た男子生徒を傷つけないようにするため、苦痛をもってねじ伏せようとした。

 衝動と同じくらいの感情を発生させることができれば確かに相殺も可能だろう。


 でも――そんなことをその場の判断で躊躇いなく実行できるような、心の強い人間はどれだけいる?


「……悪い。俺にも那月にも、あんたの告白をめちゃくちゃにするつもりは全くないんだが、ちょっと今はどっか行ってもらえるか」

「な、なにが起こったんだよ。説明くらいあっても――」

「そんな時間ねぇってわかんねえのかっ!?」


 思わず、男子生徒を怒鳴りつけてしまう。

 自分でも驚くような声量と気迫にすっかり意気消沈したのか、男子生徒は青い顔でこくこくと頷いていた。


 俺は謝罪も兼ねて男子生徒に手を貸して起き上がらせると、那月から庇うような位置取りを心掛けて体育館裏から彼を逃がす。


 そうして二人だけになったところで、再び那月へと向き直り、


「……全く、世話の焼けるご主人様だよなあ、ほんと」

「………………こ、う。わた、し……もう…………っ」


 零れた声は細く、掠れていて、藁にもすがるように弱々しいもの。

 赤くなった目元から透明な雫が湧き上がり、頬を伝って顎から落ちると、乾いた礫を点々と濡らす。


 泣いてしまうほどに辛かったのだろう。

 痛みで自分を律する必要があるほどに苦しかったのだろう。


 でも――那月は衝動に抗い、耐え抜いた。

 その在り方は、途轍もなく尊いものだと俺は思う。


 真の意味で那月が抱える思いを理解することは出来ないけど、その重さを少しでも肩代わりして、終わらせるために俺がいる。


 口の中を歯で噛み切り、溢れた血の味。

 それを確認してすぐに那月を抱き寄せ、赤い唇を塞いだ。


 那月は喉を鳴らして俺を抱きしめる。

 背中に指が食い込んでしまうほど、強く。


 腔内では舌が絡み合い、血を一滴たりとも逃さないようにと歯茎を舐るように蠢いた。

 那月は貪るように唇を合わせてきて歯と歯が当たるのだが、そんなことを気にする余裕もなければ、やめる気も全くなかった。


「――は、ぁ……んっ」


 長く続いた濃厚なキスで息が持たなくなったのか、遂に唇と唇が離れる。

 艶めかしい吐息交じりの声。

 間にかかっていた透明な糸がゆっくりとたゆみ、やがて落ちると、那月が頭を強く胸に押し付けて、


「……こう。わたし、きずつけません、でした……っ! がまん、して、がんばりました…………っ!!」

「ああ。本当に、頑張ったな」

「ううっ……っぁ、あああああああああああっ!!」


 ちゃんと見ていたと伝えるように背中を優しく摩ってやると精神の防波堤が決壊したのか、胸元で嗚咽が漏れる。

 那月が泣いていた記憶は、それこそ吸血鬼になった事実を受け入れられずにいた頃以来だろうか。


 それだけ那月の涙は珍しく、重い。


 だからせめて、溜め込んだものをすべて吐き出して満足するまではこのままでいようと思い、泣き止むまで那月を優しく抱きしめ続けた。


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